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清和天皇

日本の第56代天皇 ウィキペディアから

清和天皇
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清和天皇(せいわてんのう、旧字体淸和天皇嘉祥3年3月25日850年5月10日〉- 元慶4年12月4日881年1月7日〉)は、日本の第56代天皇(在位:天安2年8月27日858年10月7日〉- 貞観18年11月29日876年12月18日〉)。惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。

概要 清和天皇, 第56代天皇 ...

文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣藤原良房の娘の明子

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略歴

父の文徳天皇が践祚して4日目に生まれる。第四皇子であり、異母兄に惟喬惟条惟彦親王がいたが、母方の祖父の藤原良房の後見の元、3人の兄を退けて生後8カ月で皇太子となる。天安2年(858年)、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位した。病床の文徳天皇は皇太子が幼少であることを危惧し、6歳年長の惟喬親王に中継ぎとして皇位を継承させようとしたが、実現しなかった。幼少の為、良房が外戚として政治の実権を握った。

貞観8年(866年)には伴善男らによるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生した。善男を信頼していた天皇は、事件が解決しない最中の同年8月に良房を正式に摂政に任命した[注釈 1]。なお、『日本三代実録』の清和上皇の崩伝記事(元慶4年12月4日条)によれば、応天門の放火の主犯は善男の子である中庸とされて善男はその連座に過ぎないとされたものの、清和天皇の意向によって厳罰に処せられたという[2]

貞観18年(876年)第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、太上天皇となる。2年半後の元慶3年(879年)5月に出家、その年の10月より畿内巡幸の旅に入った。翌年3月丹波国水尾[注釈 2]の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣源融の別邸棲霞観にて病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち崩御。宝算31。陽成天皇即位後の清和上皇が国政に関わったという記録は見えないものの、藤原基経の摂政任命及び上皇の崩御その日に行われた基経の太政大臣任命には上皇の意向が働いていたとする説もある[3]

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系譜

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系図

 
 
 
54 仁明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
55 文徳天皇
 
 
 
 
 
58 光孝天皇
 
人康親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
56 清和天皇
 
惟喬親王
 
59 宇多天皇
 
藤原基経
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
57 陽成天皇
 
貞純親王
 
 
 
 
 
 
真寂法親王
(斉世親王)
 
敦実親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
源清蔭
陽成源氏
 
源経基
清和源氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
源雅信
宇多源氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
60 醍醐天皇
 
 
 
 
 
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后妃・皇子女

安田政彦によれば、臣籍降下しなかった皇子に関しては貞明・貞固・貞元・貞保・貞平・貞純・貞辰・貞数・貞真・貞頼、皇女に関しては孟子・包子・敦子・識子の出生順であったと推測している。ただし、『日本紀略』には敦子を第五皇女としている。同書は孟子よりも年下の包子を生母の順位に従って第一皇女としているため、生母によって順位を改めたと推測できる一方で、伝えられている内親王の数が4名であるために何をもって敦子を第五皇女と記載したのかという問題が残されている[4]

この子孫の多くが臣籍降下して清和源氏となった。中でも枝葉広く栄えたのが第六皇子貞純親王の子経基王の子孫で、源頼朝足利尊氏をはじめ武家源氏の大半がこの系統から出た(もしくは後裔を称した)。

諡号・追号・異名

追号の"清和天皇"は譲位後の在所だった清和院から採られた。御陵の位置によって水尾(みずのお)帝、まれに元号を採って貞観帝とも言う。

後水尾天皇は、この清和天皇を意識してその追号遺詔した。

在位中の元号

陵・霊廟

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清和天皇 水尾山陵

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区嵯峨水尾清和(水尾山腹)にある水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

洛東の上粟田山にて火葬され、遺骨は生前の希望から洛西の水尾に埋葬された。所在がほぼ確かな平安時代の天皇陵の1つである。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝記

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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