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芳賀栄次郎
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芳賀 栄次郎(はが えいじろう、1864年9月15日(元治元年8月15日) - 1953年(昭和28年)2月27日)は、日本の陸軍軍医。最終階級は軍医総監。医学博士。レントゲン技術の日本への導入に貢献した[1]ほか、軍陣医学の発展に寄与した[2]。
生涯
幕末の会津若松城下で、会津藩藩士の芳賀家[3]に生まれる。戊辰戦争の敗戦により一家は離散した[2]が、兄の直政[4]は弁護士[3]となり、姉(又は妹)は旧会津藩士で検事となった小原朝忠に嫁ぎ、小原夫妻の養子が小原直である[3]。
帝国大学を最優等[5]で卒業[6]。大学院で外科を専攻し、スクリバに師事する[5]。在学中に郷里で発生した磐梯山噴火の際は、三輪徳寛とともに現地で負傷者の救護にあたった[7]。大学院を卒業し、『特発脱疽ニ就テ』で医学博士号を授与される[8]。
陸軍二等軍医時代に歩兵第23連隊に勤務していた芳賀は、旧薩摩藩藩士で上司の第6師団長、野崎貞澄の娘と結婚した[9]。芳賀は九男二女[10]に恵まれ、男子は医師、検事、砲兵将校、騎兵将校、陸軍軍医、歯科医となり、長女は永持源次に嫁ぐ[4]。五男の芳賀信政は戦死した陸軍大佐である。
日清戦争では銃創の研究を行い『日清之役第三師団ニ於ケル銃創治験』と題して発表。この論文は日本のみならず、ドイツでも発表され高い評価を得た[11]。1896年(明治29年)ドイツに留学し、レントゲン資料を私費で購入[12][5]。日本へのレントゲン技術の端緒をなす。帰国の際はシベリアを単騎横断した[1]。日露戦争では第五師団、近衛師団および第一師団の各軍医部長として従軍し[5]、赤痢に感染した皇族軍人の主治医を務める[13]。
陸軍軍医学校校長、朝鮮総督府医院長を歴任し、1915年(大正4年)2月、軍医総監に昇進した。京城医学専門学校長を務めて1921年(大正10年)1月、予備役編入となる[14]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[15]。
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赤十字病院長を巡って
明治の末年、当時の陸軍次官石本新六は芳賀を赤十字病院長に推したが、医務局長の森林太郎が激しく抵抗する。森は山縣有朋に働きかけ、さらに桂太郎にも工作する[18]。こうした動きを知った芳賀は文書で森に反撃するが、陸軍大臣寺内正毅は森を支持し、平井政遒が病院長に就任した。この出来事には軍医の人事権を医務局長が保持する背景があった[19]。なお石本は准長州派と言われていた人物である[20]。
レントゲン機器購入
レントゲン機器の日本への導入経緯について、『陸軍軍医学校五十年史』には以下のように記述されている(仮名を平仮名に改めた)。この出来事は1898年(明治31年)のことであった。
芳賀教官独逸留学中、独逸陸軍軍医某に就きレントゲン光線に関し攻究し、其外科学上に於ける驚異的成果を見て感ずる所あり、将来斯学に於て重要なる位置を占むべきを期し、帰朝に先立ちて之を購入し、本校研究資料として其器械装置一切を送付す。之実に本邦に於けるレントゲン装置輸入の創始にして、當時未だ東京帝国大学医科大学にすら本機の備付なく特筆に値するの事実なりとす。 — 第四篇 陸軍軍医学校時代44頁
栄典
- 位階
- 勲章等
著書
出典
参考文献
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