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荒井盛従

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荒井 盛従(あらい もりより)は、江戸時代武士仙台藩重臣。

概要 凡例荒井 盛従, 時代 ...

生涯

享保8年(1723年)、仙台藩士・今田定通の二男として生まれる。幼名は彦五郎。跡取りのいなかった荒井盛武の婿養子に迎えられ、荒井氏を継ぐ。

荒井氏は会津の戦国大名蘆名氏の庶流で、蘆名盛詮の四男・盛信が大沼郡荒井(現:会津美里町荒井)に拠って荒井氏を称し、天正17年(1589年)に蘆名氏が摺上原の戦いに敗れて滅亡した際に、荒井盛次(万五郎)が伊達政宗に降伏し臣従した。盛従の入った家は寛永年間に分かれた分家で、盛従の代には宮城郡朴沢に居館を置き、500石を知行していた。

延享4年(1747年)9月、世子・伊達重村付となり、宝暦6年(1756年)に重村が家督を相続して第7代藩主となると、近習から目付町奉行・出入司・江戸番頭を経て若年寄まで昇り、召出二番坐の家格を与えられて門閥に列し、50石を加増されている。

盛従は世子時代からの側近として重村から重用され、宝暦13年(1763年)の一門涌谷伊達氏お家騒動(いわゆる「山寺十左衛門悪逆一件」)や、安永2年(1790年)の安永疑獄などの重大事件の審理を任せられている。

寛政2年(1790年)2月6日死去。享年68。婿養子の盛典(川島行直の二男)が家督を相続した。

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武鑑掲載情報

人物・逸話

  • 昭和8年(1933年)の菊田定郷『仙台人名大辞書』では、盛従を「仙台大岡の称ありたる名町奉行」と記し、「其の町奉行の職に在るや、聴断流るるが如く、訟廷冤枉なし、断獄の明、後世の模範となすべきもの多し」と評している[1]
  • 江戸在勤の折に松下烏石に師事し、書を能くした。

脚注

参考文献

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