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宮城郡
宮城県(陸奥国・陸前国)の郡 ウィキペディアから
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宮城郡(みやぎぐん)は、宮城県(陸奥国・陸前国)の郡。宮城県の県名の由来となっている。

人口64,427人、面積111.64km²、人口密度577人/km²。(2025年7月1日、推計人口)
以下の3町を含む。
郡域
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記3町に塩竈市、多賀城市、仙台市宮城野区、泉区および青葉区の大部分(茂庭・新川などを除く)、若林区の一部(若林・霞目・荒井・荒浜以北)の区域にあたる。なお、仙台市青葉区新川は1955年に名取郡から編入されている。奥羽山脈から太平洋に至る東西に細長い形であった。
明治時代以前
要約
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戦国時代まで
8世紀までに作られたと推測され、文献初見は『続日本紀』の天平神護2年(766年)11月1日である。郡の中では南小泉遺跡に集落が形成され、平安時代、中世まで集落・町があった。その周りの広瀬川と七北田川にはさまれた地域には、条里制が敷かれ、水田が広がっていた。陸奥の国府は、おそらく天平宝字6年(724年)に名取郡の郡山遺跡がある所から宮城郡北部の多賀(今の多賀城市)に移った。多賀城の外には都市的な街区が広がった。陸奥国分寺・国分尼寺は、南小泉遺跡に近い位置に置かれた。延暦4年(785年)に東部に多賀郡と階上郡を分けたが、しばらくして元に復した。『和名抄』が記す郷の数は10で、陸奥国の中では白河郡の17と磐城郡の12に次いで多い。
- 平安時代の郷
鎌倉時代にも多賀国府は存続したが、中心地はやや西の岩切付近に移ったと考えられている。鎌倉時代の初めに伊沢家景が陸奥国の留守職として国府で政務をとり、留守氏を名乗って宮城郡北部に根を下ろした。
南北朝時代には、南北両朝や北朝内部の対立で多賀国府が争奪の的になった。国府が位置する宮城郡の北部は留守氏が占めていたが、その勢威は、国府から陸奥国全土の武士に号令をかける北畠顕家や奥州探題諸氏と肩を並べるようなものではなかった。郡内の南部・西部の勢力としては、南朝に属して戦った大河戸氏、国分寺郷に拠った国分氏、陸奥介氏の後裔八幡氏が知られる。
国府が機能を失い、奥州探題大崎氏が北に去った後、戦国時代の宮城郡は南部が国分氏、北部が留守氏の支配地に分かれた。やがて伊達氏の影響力が南から伸び、両氏とも伊達氏から養子を迎えてその一門に組み込まれた。伊達氏から入った留守政景と国分盛重は、伊達政宗の部将として活躍した。豊臣秀吉が全国を統一すると、奥州仕置によって留守氏は取り潰し、国分氏は伊達氏の家臣としてそのままとなり、結果的には両人とも正式に伊達氏の家臣となった。その後、留守政景は政宗によって領地を移され、国分盛重は追放され、留守・国分ともに宮城郡の土着勢力ではなくなった。戦国時代の宮城郡は政宗の勢力の北限に近かったが、奥州仕置を経て伊達氏の領国が北にずれると、領国の中央やや南寄りに位置するようになった。
江戸時代
慶長6年(1601年)に、仙台藩初代藩主・伊達政宗が宮城郡内の仙台に居城を築き本拠とした。仙台藩は荘・保・郷などの中世期の区分を廃し、宮城郡を地理区分として再確定させた。宮城郡のうち仙台城下町[2]を除いた地域は、高城・陸方・浜方・国分の四つに分けられた。仙台藩は城下への水運もかねて堀をめぐらせ、排水による低湿地の開発を進めて仙台平野の全域を水田地帯に変えた。大藩の城下町として仙台も発展し、周辺もその影響を受けた。宮城郡78か村の表高は4万7578石6斗3升であった[3]。
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明治時代以降
要約
視点
明治時代に陸奥国が分割されると、宮城郡は陸前国に属した。
明治5年(1874年)に大区小区制が施行されると、宮城郡は第1〔仙台城下町〕・第2〔国分〕・第3〔陸方・浜方・高城〕の三つの大区に分割された。のち明治7年(1874年)の区の再編で第1〔仙台城下町〕・第2〔陸方・浜方・国分・高城〕の二大区に改められ、明治9年(1876年)の再編で仙台城下町を含む宮城郡全域が、名取郡・黒川郡と併せて宮城県第2大区となった。
明治11年(1878年)10月21日の郡区町村編制法施行にともない、宮城郡役所が南目村の旧原町代官所に置かれた。同時に仙台区が宮城郡より分立し、仙台城下町が行政区画上正式に宮城郡から分離された。市制・町村制が施行された明治22年(1889年)当時の宮城郡の人口は60,518人であった。
大正15年(1926年)に郡役所は廃止され、郡内の町村は宮城県に直結したものの、昭和17年(1942年)に宮城県は宮城郡と黒川郡を管轄とする宮城黒川地方事務所を置き、郡役所の機能を実質的に代替させた。
町村制施行以前の沿革
- 明治元年
- 明治4年
- 明治5年
- 明治9年(1876年)
- 明治7年(1878年)
- 高城の小泉村が北小泉村に、国分の小泉村が南小泉村にそれぞれ改称。
- 4月 - 区の再編により、宮城郡のうち陸方・浜方・国分・高城は宮城県第2大区となる(仙台城下町は大区・小区とも変更無し。宮城県第1大区については仙台区の項を参照)。
- 10月21日 - 郡区町村編制法の宮城県での施行により、以下の変更を実施。同日大区小区制廃止。
- 仙台城下町の区域をもって仙台区が発足し、郡より離脱。同時に小田原村の一部(小田原車通・小田原山本丁・小田原金剛院丁・小田原広丁・小田原大行院・小田原清水沼通・小田原牛小屋・小田原蜂屋敷)を編入。
- 残部に行政区画としての宮城郡が発足。郡役所が南目村に設置。
- 時期不明 - 仙台区の一部(小田原蜂屋敷)が小田原村に編入。
- 明治22年(1889年)3月31日 - 翌日の市制施行に先立ち、仙台区と郡内各村の間で境界変更を実施。
- [小田原 - 仙台]小田原村のうち小野田・杉山の各字が仙台区へ編入、仙台区北六番丁の一部が小田原村へ編入。
- [南目 - 仙台]南目村のうち柳沢・二軒茶屋の各字が仙台区へ編入。
- [荒巻 - 仙台]荒巻村のうち山上清水・滝前・宮裏・上郡山・中ノ沢の各字が仙台区へ編入。
- [南小泉 - 仙台]南小泉村のうち八軒小路・広瀬川下・桃源院東・五ツ谷・行人塚・鍛冶屋の各字が仙台区へ編入。
町村制施行以後の沿革

- 明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行により、以下の町村が発足[4]。特記以外は現・仙台市。(2町12村)
- 原町 ← 小田原村、苦竹村、南目村
- 七郷村 ← 荒井村、伊在村、霞目村、蒲町村、長喜城村、六丁目村、南小泉村、荒浜
- 高砂村 ← 岡田村、蒲生村、田子村、中野村、福室村
- 七ヶ浜村 ← 塩竈村の一部〔七ヶ浜〕(現・七ヶ浜町)
- 浦戸村 ← 寒風沢浜、石浜、桂島、野々島(現・塩竈市)
- 松島村 ← 松島村、高城本郷、磯崎村、桜渡戸村、竹谷村、手樽村、根廻村、幡谷村、初原村、北小泉村(現・松島町)
- 利府村 ← 利府本郷、利府森郷、飯土井村、春日村、加瀬村、神谷沢村、沢乙村、菅谷村、赤沼村(現・利府町)
- 塩竈町(塩竈村の一部〔塩竈町〕が単独町制。現・塩竈市)
- 多賀城村 ← 市川村、浮島村、大代村、笠神村、下馬村、山王村、高崎村、高橋村、留谷村、南宮村、新田村、八幡村、東田中村(現・多賀城市)
- 岩切村 ← 岩切村、小鶴村、燕沢村、鶴谷村
- 七北田村 ← 七北田村、市名坂村、上谷刈村、野村、古内村、松森村、荒巻村、北根村
- 泉嶽村 ← 根白石村、小角村、実沢村、福岡村、朴沢村、西田中村
- 大沢村 ← 大倉村、芋沢村
- 広瀬村 ← 上愛子村、下愛子村、熊ヶ根村、郷六村、作並村、名取郡長袋村〔一部〕[5]
- 明治27年(1894年)4月1日 - 郡制を施行。
- 明治30年(1897年)9月7日 - 泉嶽村が根白石村に改称。
- 大正12年(1923年)3月31日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
- 大正15年(1926年)6月30日 - 郡役所が廃止。以降は地理区分名称となる。
- 昭和3年(1928年)
- 昭和6年(1931年)4月1日 - 七北田村の一部(荒巻・北根)が仙台市に編入。(2町11村)
- 昭和13年(1938年)9月1日 - 多賀城村の一部(字笠神・牛生の各一部)が塩竈町に編入。
- 昭和16年(1941年)
- 昭和25年(1950年)4月1日 - 浦戸村が塩竈市に編入。(1町7村)
- 昭和26年(1951年)7月1日 - 多賀城村が町制施行して多賀城町となる。(2町6村)
- 昭和30年(1955年)
- 昭和31年(1956年) 4月1日 - 多賀城町の一部(大字八幡字大杉本・宮堤・渋谷地・大字高橋字大貝沼・蚝田・沼田・大字南宮字一里塚・浦山・舞台)を仙台市に編入。また、同時に仙台市の一部(大字中野字沼頭・西谷地・宿在家・高橋前・原前・赤松・分台)を多賀城町に編入。
- 昭和32年(1957年)
- 昭和34年(1959年)1月1日 - 七ヶ浜村が町制施行して七ヶ浜町となる。(4町2村)
- 昭和38年(1963年)11月3日 - 宮城村が町制施行して宮城町となる。(5町1村)
- 昭和42年(1967年)10月1日 - 利府村が町制施行して利府町となる。(6町)
- 昭和46年(1971年)11月3日(4町)
- 昭和62年(1987年)11月1日 - 宮城町が仙台市に編入。(3町)
変遷表
自治体の変遷
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行政
- 歴代郡長
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脚注
参考文献
関連項目
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