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荒尾成昭
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荒尾 成昭(あらお なりあき)は、江戸時代中期の鳥取藩家老。米子荒尾家5代。
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経歴
正徳5年(1715年)、鳥取藩家老荒尾成倫の長男として生まれる。享保14年(1729年)2月、藩主池田吉泰に初めて御目見する。享保19年(1734年)7月に成倫が死去し、9月に家督相続が認められ米子領主となる。
享保20年(1735年)10月、桜町天皇即位式の祝賀使を務める。元文元年(1736年)、成昭が病に臥して目の届かないのを良いことに、家臣の湯浅清六、湯浅九左衛門が家政をほしいままに取り計らって家中対立が生じ、双方に暇を出す事態となる[1]。延享2年(1745年)3月、御職家老(執政家老)となり、河内を大和と改名する。
延享4年(1747年)8月21日、病床にあった藩主宗泰が死去し、9月5日、幼い継嗣勝五郎(重寛)の藩主相続のため江戸に出府するも、途中で病を発する。幕府より勝五郎の相続が認められ、10月12日に老中より池田家家老として呼び出しを受けるも、病床のため、同じく家老の荒尾斯就のみ出席して申し渡しを受けた[2]。同年11月4日、江戸藩邸で死去、享年33。家督は養子の成昌(分家荒尾成庸の子)が相続した。
成昭の死去により後任が置かれず、荒尾斯就1人が幼主勝五郎を擁して専横を極め、宝暦4年(1754年)、勝五郎の母桂香院に家老職を罷免されて失脚することになる[3]。
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脚注
参考文献
関連項目
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