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荒田武卿

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荒田武卿
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荒田 武卿 (あらた ぶきょう、慶応3年12月4日1867年12月29日) - 1932年昭和7年)11月27日)は、明治中期にアメリカへ渡り、カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)を卒業(哲学士)。帰国後は、台湾清国へ渡り、当地の海関(税関)で徴税・貿易管理に従事した。名は武郷とも表記。

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荒田武卿
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来歴・人物

要約
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旧暦慶応3年12月、大隅国姶良郡国分郷麓(現鹿児島県)で誕生する。1875年(明治8年)、8歳の頃より國分郷校に通い、三字経・孝経・大統歌・四書・五経・家求・国史略・十八史略・日本外史を習う。1878年(明治11年)に開校した小学校にて掛図読本・地理書・算術・習字等を習う。

司法省法律学校への進学を試みるため、兄の九十郎が通う東京芝区城山町の若松塾に入塾、官立学校への入学を模索する。1884年(明治17年)同時期に夏目漱石が在塾していた神田区駿河台の英学塾成立学舎に転校し、大学予備門入学を目指す。そこで舎長中原貞七が英和辞典を使って教えるところを熟視し、洋学に強い興味を持ち海外留学の必要性を悟る。その頃『自由燈』(後の東京朝日新聞)に掲載されたメソジスト銀座教会二代目牧師美山貫一(長州出身)の米国カリフォルニア州サンフランシスコ行きの記事と勧告「世界の大勢に通づると欲する者は同地に渡航すべし」を読み、同氏を築地に訪ね米国渡航を志願した。

1885年(明治18年)4月3日、美山牧師が引率する十数名の学生の一人として渡米した。その中には、鵜飼猛(後に牧師)、明治・大正・昭和三代の天皇の歯科医として活躍した一井正典や歯科医で北米最古の邦字新聞『北米報知』を設立した隈元清がいた(武卿の日記には隈元清とは在米中の親友であったと記載)。渡米後に世話になったのはサンフランシスコ日本人福音会で、同会は、メソジスト監督教会宣教師在函館米国領事を務めたM・C・ハリス美山貫一が開設し、日本人留学生向けの聖書研究と英語教室とともに、安価で宿泊施設を提供し、同地で日本人コミュニティを築いた。武卿は住込みでコックやボーイ等に従事、夏季休暇にはワイン農家などで働き生計をたてた。当時はアメリカ西海岸で働きながら学ぶスタイルの留学が流行し、スクールボーイ(school boy)と呼ばれたが、武卿もそれを自称した。1892年(明治25年)4月のバークレー・ハイスクール卒業からカリフォルニア大学バークレー校入学までの3ヶ月間ほど、オークランドの地方裁判所書記宅でコックとして働いたところ、その主人に卒業論文「日米親交の必要を論ず」を気に入られ、同地の夕刊新聞に投書された。

カリフォルニア大学バークレー校時代

1892年(明治25年)カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)入学、専攻は法政学で政治経済、ローマ法、論理哲学、英文学、フランス語、歴史を学んだ。1895年頃、同校には日本人が8名在学しており、本科生は武卿を含め2名であったとの記述がある。当時の校長Martin Kelloggをはじめ、地質学教授のJoseph LeConte、政治学教授のBernard Moses、歴史学のThomas Rutherford Bacon、経済学教授のCarl C. Plehn(後の第25代 American Economic Associationのプレジデント)らに師事した。Carl C. Plehn教授から日本の地方政治についての論文の提出を依頼され、日本の封建制度の歴史から明治初年の中央集権制への大改革と、地方自治への弊害等の歴史や改革への取り組みを詳細に執筆、それが高く評価され同大学の雑誌『The Occident』に“Local Government of Japan”と題して掲載された[1]

1896年(明治29年)5月13日、Bachelor of Philosophy(Ph.B:哲学士)の学位を授与され大学を卒業した[2]

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略歴

  • 1885年(明治18年)4月3日 - 16歳。メソジスト派福音会の美山貫一を頼り横浜発アラビック号(3年前に津田梅子が帰国時に利用)に乗り、4月21日サンフランシスコ港に到着。日本人福音会に世話になり、英語習得のため Franklin Elementary School に通う。
  • 1888年(明治21年) - 米山梅吉(後に中央三井信託銀行初代社長で財団法人緑岡小学校〈現、青山学院初等部〉を創立)も同地に到着し、日本人福音会の幹事として従事。この年武卿は勉学に励む中、日本人福音会で長く世話になっている。
  • 1889年(明治22年)7月 - 21歳。バークレー・ハイスクールに入学。
  • 1892年(明治25年) - カリフォルニア大学バークレー校入学。専攻は法政学で政治経済、ローマ法、論理哲学、英文学、フランス語、歴史を学んだ。
  • 1893年(明治26年) - シカゴ万国博覧会を観覧。
  • 1896年(明治29年)5月 - 27歳。Bachelor of Philosophy(哲学士)の学位を取得し大学を卒業。8月 - 11年間の米国留学を終えホノルル経由で帰国。ハワイでは村田豊作(東京帝国大学医学部第一回卒業生で後の鹿児島市立病院長)と同氏の大学予備門時代の友人でハワイに滞在していた満留善之助(日本移民会社の支配人)とハワイ観光を楽しんだとの記録がある。ホノルルからの船には元外務大臣でハワイで療養していた陸奥宗光も同乗していた。
  • 1898年(明治31年)1月 - 台湾の淡水税関事務嘱託となる[3]。同地では1898年5月創刊の『台湾日日新報』にも在籍[4]
  • 1900年(明治33年)4月 - 清国広東省三水の海関(税関)に就職[5]
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家族

  • 妻:ツ子(ツネ)
  • 子:スミエ・武夫・静子・冨美(夫:黒田龍馬 - 日本のジャーナリストで実業家。子:黒田正隆)・喜子・武徳・喜代子

その他

1914年上海に設立された東方通信社(共同通信社の母体の一つ)社長宗方小太郎の日記には荒田の名が度々登場する[6]

脚注

参考文献

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