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葉室光俊
日本の鎌倉時代中期の公家・歌人 ウィキペディアから
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葉室 光俊(はむろ みつとし)は、鎌倉時代中期の公家・歌人。権中納言・葉室光親の子。官位は正四位下・右大弁。新三十六歌仙の一人。子に大僧都・定円、尚侍家中納言(藤原親子)、鷹司院帥がおり共に勅撰歌人である。出家して真観と称した。右大弁入道等とも呼ばれる。
経歴
葉室光親の子として誕生。母は順徳天皇の乳母としても知られる藤原経子。同腹の弟に後嵯峨院の院司葉室定嗣がいる[1]。
承久2年(1220年)、右少弁蔵人に任じられる。翌承久3年(1221年)、承久の乱敗北により、父光親は死罪、光俊も連座して筑紫国に配流されたが、嘉禄2年(1226年)以降は中央に返り咲き、後堀河院院司別当に至る。正四位下、右衛門権佐、右大弁。嘉禄2年(1236年)出家、法号真観[* 1]。
歌人としては、始め藤原定家に師事し、『新勅撰和歌集』で勅撰集入集を果たすが、やがて正三位知家(藤原知家)らと共に、御子左派への対抗勢力を形成。『現存和歌六帖』『秋風和歌集』等の編纂、『難続後撰』等の著述によってその立場を主張した。文応元年(1260年)以降、6代将軍・宗尊親王の歌の師として、鎌倉歌壇にも重きをなす。歌枕の研究に『風土記』を活用したことでも知られる[2]。また、宗尊親王の後援を背景として、後嵯峨院の命により『続古今和歌集』撰者に加えられる[3]等、中央歌壇にも影響力を持ったが、親王の失脚に伴い、勢いを失った。
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系譜
作品
- 撰歌
- 『現存和歌六帖』
- 『秋風和歌集』
- 1251年(建長3年)冬頃。20巻1365首。
- 『石間集』
- 『瓊玉和歌集』
- 宗尊親王の家集。1264年(文永元年)12月9日撰進。10巻508首。
- 『現存三十六人詩歌』
- 『閑放集』
- 残決のみ伝存。
脚注
参考文献
関連項目
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