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藤原兼頼

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藤原 兼頼(ふじわら の かねより)は、平安時代中期の公卿藤原北家中御門流右大臣藤原頼宗の長男。官位正二位権中納言小野宮中納言と号す。

概要 凡例藤原 兼頼, 時代 ...

経歴

後一条朝万寿3年(1026年元服と同時に従五位上に叙され、まもなく侍従次いで右近衛少将に任官。万寿4年(1027年正五位下に昇叙される。

長元2年(1029年従四位下右近衛中将次いで従四位上・左近衛中将に叙任される。この年に縁談が成立し、右大臣藤原実資の溺愛した藤原千古を妻と為し、小野宮家の資産を受け継いだ。千古の父・実資はこの縁談を慎重に行い、同じ小野宮流権中納言藤原経通や同・藤原資平らに相談したり、主計頭賀茂守道を召して婚儀の日取の吉凶を確認したりしている[1]。なお、この縁から兼頼はのちに小野宮中納言と号した。

長元3年(1030年正四位下次いで従三位に叙せられ、藤原道長の孫の世代としてはいち早く公卿に列す。翌長元4年(1031年)に参議に任じられるが、引き続き近衛中将を兼ねる。また、長元7年(1034年)父の頼宗の譲りにより正三位、長元9年(1036年)舅の藤原実資の譲りにより従二位と、近親の後押しを受けて昇進を重ねた。しかしその後、長元9年(1036年)に藤原信家教通の子)、長暦3年(1039年)に藤原通房頼通の子)と、摂関家嫡流の従兄弟たちに権中納言昇進で先を越されている。

後朱雀朝長久3年(1042年正二位・権中納言に叙任される。権中納言昇進後は兼官がない状態であったが、康平2年(1059年)になって春宮・尊仁親王(のち後三条天皇)の春宮権大夫を兼ねている。しかし、尊仁親王の即位を見ることはなく、康平6年(1063年)正月11日に薨じた。享年50。

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官歴

公卿補任』による。

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系譜

脚注

参考文献

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