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藤原行隆

平安時代後期の貴族。藤原北家勧修寺流。藤原顕時の長男。正四位下・左大弁。子に覚顕、源雅、重喜。 ウィキペディアから

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藤原 行隆(ふじわら の ゆきたか)は、平安時代後期の貴族葉室行隆とも呼称する。藤原北家勧修寺流権中納言藤原顕時の長男。官位正四位下左大弁

概要 凡例藤原行隆, 時代 ...

経歴

初め中宮大進として美福門院に仕え、のちにその養子であった二条天皇に仕えて、永暦元年(1160年五位蔵人長寛3年(1165年左少弁を歴任する。しかし、同年に二条天皇が崩御し、翌永万2年(1166年)二条親政派が瓦解すると行隆は解官されてしまい、以後長年に亘って不遇を託つ。

治承3年(1179年)に平清盛によるクーデター(治承三年の政変)が発生すると、右中弁・平親宗と右少弁・平基親の2名の弁官が解官されたことに伴って、清盛の推挙を受けて左少弁に還任するとともに、安徳天皇の五位蔵人となる(この経緯は平家物語の「行隆之沙汰」の段に詳しい)。その後は、治承5年(1181年従四位下・権右中弁、寿永2年(1183年)右中弁、寿永3年(1184年)左中弁、元暦2年(1185年正四位下・右大弁と弁官を務めながら順調に昇進する。

この間、山城守を務めたほか、養和元年(1181年)には造東大寺長官に任ぜられ、平家南都焼討によって焼失していた東大寺の復興を担当した。造東大寺大勧進職に就いた重源と協力し任務に当たったものの、事業の完成を見ることなく死去してしまったことから、重源は生前の行隆の尽力に報いるために、彼の遺族を東大寺領である備前国南北条荘の預所に任じている[1]

文治2年(1186年)左大弁として弁官の筆頭に昇るも参議には任ぜられず、下僚の右大弁・九条光長が先に参議となっている。翌文治3年(1187年)3月17日卒去享年58。最終官位は左大弁正四位下兼造東大寺長官。

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官歴

『弁官補任』による。

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系譜

脚注

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参考文献

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