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九条光長
平安時代後期から鎌倉時代初期の公卿。藤原北家勧修寺流。正三位・参議。勧修寺流九条家の始祖。右大弁。子に藤原盛房(次男)、長信(園城寺、律師) ウィキペディアから
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九条 光長(くじょう みつなが)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家勧修寺流、権右中弁・藤原光房の子。官位は正三位・参議。九条三位と号す。勧修寺流九条家の始祖。
経歴
皇嘉門院の乳母を務めた皇嘉門院御匣殿[1]の養子となった縁で女院に仕え、久安6年(1150年)7月に皇嘉門院判官代に任ぜられると、翌月には叙爵を受ける。その後、兵部権少輔、右衛門権佐などを歴任。兄・吉田経房や弟・藤原定長同様、後白河院の傍にあって実務官僚としての務めをよく果たしたが、光長の場合は摂関家の家司としての活動も顕著であり、近衛基実・松殿基房についで仕えた九条兼実には特に重用された。号として九条三位を許され、勧修寺流九条家の祖となっている。経房・定長と共に三事兼帯を果たしたが、三兄弟としてのそれは古今に例のない栄誉と賞賛された(『山槐記』元暦元年9月18日条)。その一方で、後白河院が秘かに弟の定長に対して「学問も人望も申し分は無いが、摂政(九条兼実)を重んじて自分を軽んじている」と不満を漏らしている(『玉葉』文治2年閏7月2日条)[2][3]。
文治元年(1185年)に蔵人頭に任ぜられると、翌2年(1186年)に参議に昇叙。この年兼実が摂政・藤氏長者となると執事別当と氏院別当を兼ねるた上、殿下渡領である備前国鹿田荘の預を務めた[3]。同4年(1188年)に従三位、建久6年(1195年)に正三位に昇叙。同年出家し、6月に薨去。
日記として『光長記』を残している。
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系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
出典
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