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藤原長倫

鎌倉時代の公家。藤原式家、藤原光輔の次男。正三位・式部権大輔。非参議、出家 ウィキペディアから

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藤原 長倫(ふじわら の ながとも)は、鎌倉時代公家藤原式家文章博士藤原光輔の次男。官位正三位式部権大輔

概要 凡例藤原 長倫, 時代 ...

経歴

後鳥羽院政期初頭の正治元年(1199年文章得業生に補せられ、翌正治2年(1200年丹後掾に任ぜられる。建仁元年(1201年)正月に献策を行うと、3月に式部少丞に任ぜられ、建仁2年(1202年従五位下越前権守に叙任される。

承元3年(1209年)従五位上・民部少輔に叙任されると、建保4年(1216年)式部少輔と京官を務め、建保6年(1218年従四位下に昇叙された。承久元年(1219年)式部省の巡任を止められて治部大輔に遷るが、承久3年(1221年文章博士となる。同年に発生した承久の乱以降は貞応元年(1222年)従四位上、元仁元年(1224年正四位下と順調に昇進し、寛喜2年(1230年)式部権大輔に任ぜられた。

寛喜3年(1231年春宮・秀仁親王の東宮学士を兼ね、貞永元年(1232年)秀仁親王が即位(四条天皇)すると学士の功労により従三位に叙せられ、藤原式家の氏人としては平安時代中期の参議藤原忠文以来約280年ぶりに公卿の地位に昇った。天福元年(1233年)子息の光兼を大学頭に任じる代わりに式部権大輔を辞すが、延応元年(1239年正三位に至る。

仁治3年(1242年)7月27日出家。法名・澄阿[2]または証阿[3]

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官歴

公卿補任』による。

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系譜

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原光輔
  • 母:不詳
  • 養子女
    • 男子:藤原光兼(1194-1265) - 実は藤原成信の子
    • 男子:藤原基長(?-1290) - 実は藤原保綱の子

脚注

参考文献

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