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藤原顕保
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藤原 顕保(ふじわら の あきやす、生年不詳 - 天養2年4月4日〈1145年4月27日〉)は、平安時代後期の公家。藤原北家魚名流、参議・藤原家保の長男。官位は正四位下・播磨守。
経歴
参議・藤原家保の長男として誕生。生年は不明だが、同母弟の家成が嘉承2年(1107年)生まれのため、嘉承元年(1106年)かそれ以前と推定される。
白河院政期後期から鳥羽院政期前期にかけて、土佐守・美濃守と受領を歴任。この間の大治5年(1130年)正四位下に叙せられている。保延元年(1135年)修理大夫に任ぜられると、保延3年(1137年)皇后宮権亮を兼ねるなど、一時京官も務めた。
保延6年(1140年)ごろ越前守に任ぜられると、康治元年(1142年)ごろ播磨守と、鳥羽院政期中期には再び受領を歴任している。
天養2年(1145年)播磨守在任中に卒去。顕保はよく人の悪口を言っていたため、天罰が下り口がただれて食事がとれずに亡くなったという(『台記』)[1]。
官歴
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
参考文献
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