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行快 (仏師)
鎌倉時代前期の慶派の仏師 ウィキペディアから
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行快(ぎょうかい、生没年未詳)は、鎌倉時代前期に活躍した慶派の仏師。快慶の高弟で、事実上の後継者である。
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経歴
生没年は不詳だが、活動時期は運慶の後継者・湛慶と重なり、湛慶と同年代かやや若いと考えられる。快慶の法眼期の作品である地蔵菩薩立像(藤田美術館蔵)の足枘に、快慶の名と並んで「開眼」「行快」の墨書銘があり、これは本像の玉眼制作を担当したのが行快であることを意味すると考えられる。像の印象を大きく左右する玉眼の制作を任され、銘記中に制作者として快慶との併記を許されたのは、既にこの頃には行快が快慶工房の有力仏師だったことを示していると言えよう。建保4年(1216年)に、青蓮院熾盛光曼荼羅諸尊の造立の賞を快慶から譲られ、法橋位を得る。法橋叙位は、快慶一門の仏師の中では初めてであり、快慶の一番弟子だった行快の立場を物語る。建保7年(1219年)快慶が行った大和の長谷寺・十一面観音像再興に関する記録でも、「大仏師快慶」と「左(すけ)法橋 行快」と快慶を補佐する立場だと記され、行快はその光背を製作したという。嘉禄3年(1227年)には、極楽寺(京都府城陽市)の阿弥陀如来立像を造立。同年、法眼に昇進した。
墨書銘がある現存作品は10点(京都国立博物館による[1]。下記の表参照)。このほか無記名だが行快作だと思われる作品が数点ある。作品を見ると、快慶の形式・作風を継承しながら、複雑さと強さを加味している。しかし、行快から後の仏師の活動は、他の兄弟弟子も含めても判明せず、快慶の仏師系統はこの後消滅したとみられる。
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作品
行快作の可能性が高い像
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脚注
参考文献
関連項目
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