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裏辻公愛

裏辻家13代。母は家女房。左中将、従三位。子に忠子(糸姫、早世)、広子 ウィキペディアから

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裏辻 公愛(うらつじ きんよし)は、江戸時代後期の公家

概要 凡例裏辻 公愛, 時代 ...

概要

公愛は裏辻実孚の実子として生まれたものの、なんらかの理由で密子となっていた。ところが、文政11年(1828年)4月13日に義弟の裏辻公篤橋本実久の実子)が5歳で死去したため、宗家の西園寺家正親町家の意向もあって裏辻家の家督を継承した。この時、密子であったためか、一度清水谷実揖の養子となった上で「実揖の子を養子にする」という形で家督を継承している。後世の系図で公愛が実揖の実子とされるのはこのためである。

文政13年(1830年)には稚児として禁裏御所に仕えているが、「小兒生得姦曲、過法の間、叡慮不快、女房等毎々譴責を加う、また天威を違う、(中略)指差さざるは無し、ついにかくの如く及ぶ、十歳の童子姦悪の事、前代未聞」として10月28日にクビになっている。

嘉永2年(1849年)11月27日には名前を季忠から公愛に改めている。

その後は、安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加したり、文久2年(1862年)12月19日には国事御用掛に就任したりしている。この人事について、中山忠能は自身の日記に「この人(公愛)奸曲無双の佞人地。去年近臣を除かる。今また掌を反し、実に黒白分けざる世也。ただただ退隠、世を窺うの形勢、尽力すべきの外才覚無く、長く大いに嘆くべき代地。誰の口入か、怪しむべきことども也(去る冬、差扣を免ぜらるるは、光愛卿(柳原)周旋と云々。もしや同人か。小人出頭恐れるべきことども也)」と残している。

明治12年(1879年)1月には借金のために破産し、同15年(1882年)7月10日には不平党という党派を募ったことで捕縛され、同年10月3日に62歳で亡くなった[1]

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脚注

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