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豊橋市の映画館
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概要
近世の吉田(今日の豊橋)は吉田城の城下町や東海道の宿場町として栄えた。愛知県東三河地方の中心都市であり、1888年(明治21年)には今日の東海道本線に豊橋駅が開業、翌1889年(明治22年)には町制を施行して豊橋町となった。1906年(明治39年)には全国62番目・愛知県2番目の市制施行を行って豊橋市となった。1925年(大正14年)には豊橋電気軌道の本線(今日の豊橋鉄道東田本線)が開業し、1931年(昭和6年)には百貨店の豊橋丸物(後の豊橋西武)と豊橋市公会堂が竣工している。

1901年(明治34年)には朝日座にて、豊橋で初めて活動写真の上映が成功した。大正期には演劇場や演芸場から映画館への転換が進み、大正末期(1913年頃-1915年頃)には豊橋市街地に6館の、1940年(昭和15年)末には8館の映画館が存在した。1945年(昭和20年)6月の豊橋空襲では中心市街地の7割が消失し、一時的に豊橋から映画館が消滅したが、戦後には1950年までに7館の映画館が開館している。
1960年(昭和35年)頃の映画最盛期、豊橋市の中心市街地には12館の映画館があり[1]、豊橋駅前、歓楽街の松葉町、広小路通り沿いなどに集中していた[1]。中心市街地以外には、愛知大学や大日本紡績の工場がある南栄町、宿場町である二川地区にも1館ずつあった[1]。映画館の周囲には喫茶店が軒を並べており、映画館は人々の交流の場だった[1]。
1999年(平成11年)には日本最大のシネマコンプレックスであるAMCホリデイ・スクエア18(現・ユナイテッド・シネマ豊橋18)が開館した。2000年代初頭には従来型映画館の閉館が進み、2001年(平成13年)には中心市街地最後の映画館・スカラ座が閉館した[1]。
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歴史
要約
視点
明治期
豊橋を代表する劇場の東雲座(左)、豊橋劇場(上)
江戸時代には手間町(現・大手町)の西光寺西隣に西向きの常芝居小屋があり、地域名を冠して吉田常芝居と呼ばれていた[2]。公然と芝居小屋を許可する藩は少なく、馬繋ぎ場という名目で天保5年(1834年)以降に新築したとする説がある[2]。一方で、文政5年(1822年)の文献にも吉田常芝居が登場する[2]。天保初期には名代が大田屋佐平次から朝倉屋猪三郎に交代し、1873年(明治6年)-1874年(明治7年)頃には吉田常芝居が朝倉座と命名された[2]。
1900年(明治33年)には呉服町に東雲座が設立された[3]。江戸時代の常設小屋が東雲座の起源であり、1,185人を収容できる大劇場だった[3]。豊橋が町制や市制を行う頃には有力者の政談場としても使用されたという[3]。明治時代には東雲座のほかに、朝倉座、宝栄座、弥生座、豊橋劇場などの演劇場があり、尾上菊之助や市川左団次などの著名歌舞伎俳優が豊橋で公演を行っている[3]。
1901年(明治34年)10月には上伝馬本通りの東側中央にあった朝日座で、豊橋ではおそらく初とされる活動写真の上映が行われた[4]。それまでの豊橋で活動写真の上映会が企画されたことはあったが、いずれも失敗していたという[5][6]。全国を巡回して活動写真の普及に努めていた巡業隊によるものだとされる[5]。この時の上映会ではパリ万国博覧会や戦争の動画が上映された[6]。
1907年(明治40年)に東雲座で行われた山口定雄一座の「影法師」、豊橋座で行われた川上音二郎・川上貞奴一座の「貞奴新案舞曲鶴亀」などは、連日満員となるほど好評を博した[7]。1911年(明治44年)には新停車場通りの清水町に寿座が設立され[8]、「マムシ薬」と大書きされた看板が市民にインパクトを与えた。明治時代の上伝馬町には弥生座(演劇/演芸)、朝日座、河原座(演芸)があった[4]。
大正期
1912年(大正元年)頃、豊橋には演劇場4座(弥生座、東雲座、豊橋座、河原座)、演芸場1座(寿座)、映画館1館(豊明館)があった[9][10][11]。しかしその後、映画の人気が高まるにつれて演劇場の映画館への転業や廃業が進んだ[10][11]。
無声映画時代の大正初期には新派物、文芸物、時代劇などが中心だった[10][12]。第一次世界大戦頃にはアメリカ合衆国から輸入される作品が増え、大正末期には外国映画が日本映画をしのぐようになった[10][12]。大正時代の映画館は邦画・洋画を取り交ぜて1日5-6本上映[13]。一日の上映が終了するのは22時30分から23時頃であった[13]。夏季には空き地で活動写真の上映会が開催された[13]。
1921年(大正10年)8月13日には弥生座が映画館に転換して帝国館となった[4]。開館式には1,000人あまりが集まり、芸妓100人あまりも集めた祝宴後に一般客に開場された[4]。同年には錦正館と新盛館も開館しており、豊橋の映画館は5館に増えた[9]。1924年(大正13年)には広小路の豊橋丸物東隣付近にあった寿座が蝶春座に改称した[14]。同年には錦正館で松本英一監督の『籠の鳥』が大ヒットしている[15]。
戦前

1930年(昭和5年)には錦正館から改称した錦館で上映された鈴木重吉監督の『何が彼女をそうさせたか』がロングラン記録を作り、「何がホゲホゲをそうさせたか」という流行語が生まれた[15]。同年には松葉町に教育映画館としてキネマパワーが開館し、1932年(昭和7年)には豊橋市西部唯一の映画館として花田館が開館した[16]。演劇場の中でも東雲座と豊橋座は集客力が強く、歌舞伎以外にも映画、奇術の天勝一座、テノール歌手の藤原義江、関屋敏子などが公演を行った[17]。

1933年(昭和8年)には河原座が廃業したため、豊橋の劇場は演劇場2座、演芸場1座、映画館7館となった[10][11]。同年頃には作品のトーキー移行が目立ち始めたため、活動弁士や楽士の一斉失業という問題が表面化[18]。全常設館の全従業員が組合を結成し、経営者を相手取ってストライキを行った[18]。1940年(昭和15年)末には豊橋の演劇場の代表格だった東雲座が映画館の豊橋東宝映画劇場に転換し[10][12]、豊橋の映画館は8館となった[19]。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月19日から20日にかけて、豊橋市は市街地の70%が焼失する豊橋空襲に遭った。これによって錦館[20]、帝国館[21]、キネマパワー[22]、花田館[23]などが焼失し、一時的に豊橋から映画館が消えた。豊橋劇場と蝶春座(寿座)は最後まで残った演劇/演芸場であるが、1945年には建物疎開の関係で蝶春座が廃業、豊橋空襲で豊橋劇場が焼失し、映画館とともに演劇場/演芸場も豊橋から消えることとなった[19]。
戦後

終戦後の1945年(昭和20年)末には帝国館の焼け跡に第一映画劇場が[24]、 新銭町に第二映画劇場が開館した[25]。1946年(昭和21年)には松葉町に大劇が[20]、豊橋劇場跡に松竹映画劇場が開館し[26]、1947年には松葉町にメトロ劇場が開館している[27]。第一映画劇場は1949年(昭和24年)に東映封切館となり、豊橋第一東映劇場に改称[24]。1950年(昭和25年)には萱町に移転した[24]。1950年には百貨店の豊橋丸物が駅前大通に移転したのを機に、丸物3階に丸物会館が開館した[28]。
キネマ旬報社の『全日本映画館録』によると、1957年の豊橋市には10館の映画館があった。愛知大学の開学や大日本紡績株式会社工場建設などのおかげで、1950年代以後の南栄地区は「豊橋の副都心」と呼ばれるほどの賑わいを見せ[29]、1959年(昭和34年)には南栄町に南東映劇場が開館した[30]。同じ年には二川地区の大岩町に二川銀映劇場が開館しており、映画最盛期には豊橋の中心市街地以外に2館の映画館が存在した。
日本の映画館数のピークはカラーテレビ放送が開始された1960年(昭和35年)頃である。1960年代には映画館の閉館が相次いだ。1961年(昭和36年)にはメトロ劇場[27]や豊橋国際劇場が[31]、1964年(昭和39年)には大劇が閉館[20]、1966年(昭和41年)には南東映劇場が[30]、1968年(昭和43年)には二川銀映劇場が閉館し[32]、中心市街地以外から映画館が消えた。1970年(昭和45年)には千歳劇場が[33]、1973年(昭和48年)には第二映画劇場が閉館した[25]。
この頃には閉館ラッシュが落ち着きを見せ、1970年代半ば以降の豊橋の映画館は広小路劇場、豊橋第一東映劇場、松竹会館ビル、日活ビル、豊橋銀座東映劇場(成人映画館)、日活小劇場(成人映画館)に再編された。
1985年(昭和60年)には郊外の藤沢町にあるホリデイ・スクエアに、ヘラルドグループのホリデイ・イン・シアターが開館[32]したが、豊橋西武が閉店する6年前の1997年(平成9年)には豊橋西武東宝が閉館した[32]。なお、平成に入った1989年(平成元年)に豊橋市街北東の市境に近い豊川市正岡町にシネマコンプレックスも備えた豊川コロナタウンが開業[34]している。
現代

1999年(平成11年)にはホリデイ・スクエアにAMCホリデイ・スクエア18が開館。この映画館は18スクリーン・計3,300席を持ち、開館時はスクリーン数で日本最大のシネマコンプレックスだった。AMCホリデイ・スクエア18開館のあおりを受けて、2000年(平成12年)には豊橋松竹会館ビルの各館(豊橋松竹・ピカデリー1・2・3)が[26]、2001年(平成13年)には豊橋東映劇場ビルの各館と日活ビルの各館(スカラ座1・2・3)が相次いで閉館し[35]、豊橋市から従来型の映画館が消滅した。豊橋東映劇場はAMCホリデイ・スクエア18の影響で赤字に転落し、黒字化の見通しが立たなくなったために撤退を決定したとしている[36]。
2002年(平成14年)には旧スカラ座と旧豊橋西武東宝を会場として、豊橋青年会議所がとよはしまちなかスロータウン映画祭を初開催した。2003年(平成15年)の第2回以降は市民有志による実行委員会が映画祭の主催者となっており、基本的に行政からの補助金を得ることなく開催を続けている。2005年(平成17年)には名豊ビルに会場を移し、2016年度は穂の国とよはし芸術劇場PLATで開催される予定である。2017年(平成29年)には映画監督の園子温がディレクターを務める映画祭「ええじゃないかとよはし映画祭」が初開催される予定である。
2005年にはAMCホリデイ・スクエア18の運営者が変わり、ユナイテッド・シネマ豊橋18となった[37]。2014年(平成26年)には15番スクリーンにIMAX上映設備を導入している[38]。
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映画館一覧
戦前の演劇場・演芸場・映画館
戦後の映画館

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脚注
参考文献
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