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赤城塔
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赤城塔(あかぎとう)は、群馬県に分布する中世の石造宝塔の形式。塔身が壺形で下部がいくらかすぼまっている形態に特徴があるとされる。赤城山南麓地域、特に粕川流域に多く分布していることから赤城信仰と結びつけ尾崎喜左雄が「赤城塔」と命名したが、榛名山東南麓にも分布することが指摘された。榛名山麓に分布するものは形態や建造時期に赤城山麓のものとは差異があるとして、榛名塔(はるなとう)と呼ばれ区別されることがある。

概要
要約
視点

鞍馬寺の保安元年(1120年)のものを嚆矢とする石造宝塔は、天台宗の影響の強い滋賀県に多く、関東地方では建仁2年(1202年)の祥光寺宝塔(茨城県桜川市)と元久元年(1204年)の東根供養塔(栃木県下野市東根)を最古の例として、初期のものは利根川下流地域に多く分布している。群馬県で最古の石造宝塔は、太田市世良田町にある長楽寺の宝塔(重要文化財)で、基礎の底面に建治2年(1276年)の銘がある[1]。鎌倉時代に建立された石造宝塔は他に三ケ尻の宝塔(前橋市粕川町深津)と宿の平の赤城塔(前橋市苗ヶ島町)が存在し、これら粕川流域に現存する鎌倉時代の宝塔の特徴としては、塔身が長く肩部から底部までほぼ同じ太さであることが挙げられる[1]。
南北朝時代に入ると、塔身の長さがやや短くなり、鎌倉時代では円筒形だった塔身の下部が細くなるという形状の変化が見られるようになる[2]。南北朝時代には赤城山南麓地域で盛んに宝塔が造立され、粕川流域に密に分布していることから群馬大学教授・尾崎喜左雄によって「赤城塔」と命名されるきっかけとなった[3]。南北朝時代には榛名山東南麓でも「榛名塔」の造立が開始され、その中では暦応4年(1341年)の銘がある榛名山墓地の宝塔(高崎市榛名山町)が最古の例である[4]。
室町時代には南北朝時代よりもさらに塔身の長さが短くなり、下部が丸くなっていく傾向がある[2]。また榛名塔の造立が応永年間以降盛んになる一方で、赤城塔の造立は低調となっていく[5]。
群馬県内には鎌倉時代から江戸時代初頭の石造宝塔が229基確認されているが、そのうち71基が赤城山南麓の前橋市、27基が粕川下流の伊勢崎市、49基が榛名山東南麓の高崎市に集中している[6]。他方で利根郡・山田郡・邑楽郡・多野郡西部では全く確認されていない。このような石造宝塔が分布する群馬県中毛地域は関東地方の中でも中世の石造宝塔が多く分布している地域とみられる[7]。赤城塔・榛名塔が作られた中世の赤城山南麓や榛名山東麓地域は天台宗の影響力が強い地域であり、逆に真言宗や禅宗の影響の強かった北毛・西毛地域では宝塔の建立が少ないことから、天台宗との関連が指摘されている[8]。下植木赤城神社の赤城塔や小鳥が島の宝塔には銘文があり、その内容も法華経供養であって天台宗の影響が現れている[9]。初期の赤城塔は主に法華経供養を目的としていたと考えられている[10][3]。のちには墓石としても用いられるようになり[3]、来迎寺(高崎市浜川町)の文亀3年(1503年)銘の宝塔には「南無阿弥陀仏」「六代覚阿弥陀仏」とあることから時宗の道場であった同寺の住職の墓であるとみられている[11]。
赤城塔は粕川流域を中心とした地域[12]、榛名塔は榛名白川沿岸や井野川流域など限られた地域に集中して分布している点が、五輪塔や宝篋印塔などのより一般化された石造物とは異なる特徴であるとされる。その点からも建立の背景に密教思想や山岳信仰があることが指摘される[13]。尾崎喜左雄は南北朝時代の『神道集』に赤城神に関する記事が2種、それ以外にも榛名山東南麓などの上野国関連記事が複数あることから、『神道集』と赤城塔の両方に赤城神社と関係のある天台宗僧侶が関与していると推察している[14]。
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赤城塔・榛名塔の一覧
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ギャラリー
- 三ケ尻の宝塔
- 波志江愛宕神社の宝塔
- 鼻毛石の宝塔
- 八寸権現山の宝塔
- 時沢の多宝塔
- 珊瑚寺の宝塔
- 二宮赤城神社の宝塔
- 江木の宝塔
- 富田の宝塔
- 塚の越の宝塔
- 小林の赤城塔
- 赤城塔(並木道祖神)
- 楽間の宝塔
- 金龍寺の宝塔
脚注
参考文献
関連項目
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