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足利豊
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足利 豊(あしかが ゆたか、1968年10月15日 - )は、秋田県秋田市河辺戸島出身の元プロ野球選手(投手)。
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来歴・人物
父も叔父も兄も野球経験者という環境に生まれ、幼少の頃から野球少年となった[1]。ドカベンの山田太郎に憧れて捕手になりたかったが、戸島小学校3年生の時に入った野球部の監督によってアンダースローの投手となっている[1]。4年生で早くも公式戦に登板し、5年生の時にはチームを県大会準優勝に導くなど、下手から浮き上がる直球を武器に頭角をあらわした[1]。
県内の強豪校である金足農業高に進み、1年夏にチームは選手権大会に出場。他校のアンダースロー投手対策のため、打撃投手としてレギュラーに帯同している[1]。2年生でエースとなったが、チームの打撃力が弱かった事もあり再び甲子園に進む事はなかった[2]。
在学中に球威を社会人野球やプロの球団から評価され[1]、卒業後は社会人野球の新日本製鐵釜石に進む。1988年の都市対抗野球にNTT東北の補強選手として出場。1回戦でリリーフ登板するが、本田技研の雨堤治久、金子誠一に連続本塁打を喫し敗退。
チームの休部にともない1989年には同系列の新日本製鐵名古屋に移籍。同年の都市対抗野球は西濃運輸の補強選手として、チームの準々決勝進出に貢献。五輪代表の候補になるなど高い評価を受け[1]、1990年のドラフトでダイエーから5位で指名を受けて入団した。
プロ2年目の1992年には7月8日の対ロッテ戦で完封で初勝利を飾る[3]など5勝を挙げ、年俸は780万円増の1,500万円(推定)となった[4]。
翌1993年のキャンプでは同郷、新日鉄釜石の先輩でアンダースローだった山田久志からシンカーを直伝され[5]、20試合に先発して自身唯一の一軍年間規定投球回数をクリア、西武から4勝を挙げて西武キラーと呼ばれた[1]。しかし同年に肩を痛め[2]、さらに1994年は脇腹と股関節を痛めて二軍での調整が続いたが、6月のワールド・ベースボール・ウイーク・イン・ジャパン第4戦でダイエー二軍の先発として登板し、キューバ相手に3安打無四球で完投勝利を挙げている[6]。
その後は首脳陣との相性もあって出番が少なく[2]1997年オフに自由契約となり、ダイエー時代のコーチであった権藤博監督が就任した横浜の入団テストを受け合格。しかし横浜入団後に再び肩を痛め、翌1998年は登板機会はなく[2]、同年10月15日に球団から戦力外通告を言い渡された[7]。その後、シカゴ・カブスのテストを受験するも合格はならなかった[2]。
1999年のシーズン途中から台湾リーグの三商タイガースにてプレーし、7試合で2セーブを記録[2]。不況の影響でチームが解散した[2]こともあり、同年をもって現役を引退した。
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プレースタイル
1990年代前半のNPBでは希少なアンダースローだった[9]。速球は最速130km/h台前半ながら、90km/h台のカーブを織り交ぜて緩急をつけていた[3]。他にはシンカーも投げていた。
詳細情報
年度別投手成績
記録
背番号
- 52 (1991年 - 1997年)
- 64 (1998年)
- 17 (1999年)
脚注
関連項目
外部リンク
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