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遣渤海使
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遣渤海使(けんぼっかいし)とは、渤海国使節の訪日を受けて日本が渤海に派遣した使節であり、728年から811年までの間に14回(または720年から15回。このうち759年は渤海経由の遣唐使。このほか787年、操舵手等の派遣が1回)の使節が記録に残っている。
背景概要
『続日本紀』によると、720年(養老4年)渡嶋津軽津司[1]諸君鞍男(もろのきみくらお)ら6人を風俗視察のため靺鞨(まっかつ)国に派遣したとある。この靺鞨国については、津田左右吉をはじめ水本浩典、熊田亮介、石井正敏などが、北海道北部の粛慎(あしはせ)を指すとしているが、鳥山喜一、酒寄雅志、森田悌、関口明などが渤海のことであるとしており定説はない。後説によると、720年の遣使が契機となり渤海の遣日本使が実現した[2]ことになるが、反論[3]もある。
698年に高王により建国された渤海であるが、武王の時代になると唐や新羅と外交的に対立するようになり、これらの勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画された。渤海側の使節団は、現在のロシア沿海地方ポシェト湾近くにあるクラスキノ土城(塩州城)から日本に向かったとされる[4]。
渤海国からの使節一行は、聖武天皇の神亀4年(727年)秋に出羽に到着し、翌年の神亀5年(728年)正月に入貢して国書を献じた。唐との関係が困難なことが窺え、また日本側も渤海が天皇の徳化により来朝したと捉え、渤海の前身であるとされた高句麗の復興と理解し、使節を厚遇し、翌728年早々に遣渤海使を派遣している。一般的には第1回の遣渤海使はこのときの遣使を指す。
新羅との関係が特に緊張していた期間(758年-763年)には、ほぼ毎年使者が往来し、759年(天平宝字3年)には恵美押勝が渤海の要請によるとも言われるが軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な新羅遠征計画を立てた。この遠征は後の孝謙上皇と押勝との不和や渤海側の事情の変化等により中止されたが、文王が唐との融和を図る時代になると軍事的な意味合いは薄れ、専ら文化交流と経済活動を中心とした使節へとその性格を変化させていった。
この交流は朝貢貿易の形態を取ったため、日本側には渤海からの虎の皮等の貢物に対して数倍の回賜で応える義務が生じ、渤海側に多大な利益をもたらした一方、日本側の財政を圧迫した。そのため、使節供応と回賜のための経費が無視できない規模になった後は、使節来朝に制限を加え、日本側からの遣使は中断した。しかし渤海側からの遣使は渤海滅亡まで継続した。
『延喜式』大蔵省式によると、遣渤海使の一行は、大使、判官、録事、訳語、主神、医師、陰陽師、史生、船師、射手、卜部、雑使、船工、柂師、傔人、挟杪、水手から構成される。
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遣渤海使一覧
要約
視点
13回説では第4回を除き、15回説では787年(又は720年)を含む。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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