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都路華香
1870-1931, 日本画家 ウィキペディアから
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都路 華香(つじ かこう、明治3年12月23日(1871年2月12日) - 昭和6年(1931年)8月4日)は、日本の明治時代から昭和時代かけて活躍した日本画家。幸野楳嶺の弟子で、菊池芳文、竹内栖鳳、谷口香嶠とともに楳嶺門下の四天王と呼ばれた。
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略伝
要約
視点
現在の京都市中京区姉小路通小川東入ル宮木町で、父定七と母このの長男として生まれる。通称は辻宇之助、本名は良景。字は子春。都路華香は号で、晩年は再生菴と称した。父は友禅描きを生業としていた。明治13年(1880年)9歳で幸野楳嶺に弟子入りする。都路華香の号は楳嶺が付けたもので、「辻」は和製漢字で元来中国には無い字のため、都良香の名前に倣い、「都」の「路」に「華」の「香」りがするという意味で命名された。楳嶺四天王の中で華香が最も年下であるが、入門は最も早く、翌年芳文と栖鳳が入門する際その取次をしたのは華香だったという。若い頃の華香は伏し目がちで、栖鳳や香嶠から「下見て暮らせ」という渾名をつけられるほどだった[1]。14歳まで楳嶺のもとで学んだが、家庭の事情で続けることが出来ず、家で父と友禅の絵を描いた。16歳頃には染色学校の本科生となり理化学などを学び、夜学に通って英語を3年間学んだという。ただし、加藤英舟の回想によると、楳嶺のもとには時おり通ったようだ。
明治23年(1890年)第3回内国勧業博覧会に《渓鶯惜春》《月下双猿掛軸》を出品し、前者が褒状を受け、以後しばしば展覧会に出品し受賞を重ねる。20代の頃には川合玉堂や山元春挙と親しく、共に写生旅行に出かけたり、出品前の作品を持ち寄り互いに批評し合った。明治28年(1895年)師楳嶺が亡くなるが、華香に栖鳳、芳文、香嶠のように華香を長旅に同伴させ写生や有力者に紹介する機会を与えられなかった事を気にしていたという。同年第4回内国勧業博覧会に出品された橋本雅邦の《釈迦・十六羅漢図》《龍虎図》に感銘を受け、玉堂と共に東京に出て雅邦に弟子入りすることも考えたが、実現しなかった。明治32年(1899年)6月から建仁寺の黙雷禅師に参禅。このため華香には禅をモチーフにした作品が多く、そうでない作品にも禅に通じる精神性や大らかさ、自由闊達さが感じられる。また、これ以降波の表現に拘った作品をしばしば制作しており、華香の画業の特色と言える。
明治38年(1905年)第10回新古美術品展覧会から審査員を嘱託され、以後毎年嘱託を受ける。明治43年(1910年)京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)の嘱託教員となる(翌年講師、大正5年(1916年)教諭)。同年から開催された文展にはほぼ毎年出品し、大正5年(1916年)の《埴輪》で特選。同年には、正八位次いで従七位に叙せられ、大正8年(1919年)正七位、大正11年(1922年)従六位、大正13年(1924年)正六位、大正14年(1925年)正五位に昇叙される。大正13年の第5回帝展からは審査員を務める。翌年3月京都市立絵画専門学校校長心得兼美術工芸学校校長心得に任命され、翌年心得が取れ高等官四等を以て待遇される(翌年三等)。昭和3年(1928年)胃がんの手術を受け退院、以後再生菴と称す。昭和5年(1930年)秋より神経痛を患い、翌年5月死期が近いことを知らされる。亡くなる直前に勲六等瑞宝章、没日には高等官二等待遇を受けるも、60歳で逝去。法名「一枝院華香良景居士」。墓は建仁寺塔頭霊洞院。
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作品
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脚注
参考文献
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