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酒井了次

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酒井 了次(さかい のりつぐ)は、江戸時代寄合旗本庄内藩一門酒井吉之丞(玄蕃)家の祖。

概要 凡例酒井了次, 時代 ...

経歴

慶長11年(1606年)、酒井家次の五男として生まれる。元和8年(1622年)、兄忠勝庄内藩主となった際に、5000石を分与されて寄合旗本となる。

宗家の家督横領を企む兄の忠重に讒言され、兄の忠勝により高野山入りを命ぜられたが、寛永12年(1635年)に密かに江戸に上って若年寄に密訴したため、忠勝の怒りを買い、庄内藩領内の黒川に幽閉された。軟禁状態にあり、里人の能舞を楽しみ、自らも鼓を打ち謡をしたが、寛永12年(1635年)5月10日配所にて死去。享年30。

没年は、大督寺の墓碑に記されたものは寛永12年、高野山の塔銘に記されたものは寛永13年(1636年)、酒井本家系図に記されたものは寛永14年(1637年)である。[1]

嫡男忠崇は、酒井忠清の仲介で宗家の扶持を受けることとなり[1]承応2年(1653年)死去。忠崇の子の重盈は、弟の重秋と共に江戸から、庄内に下向して宗家に仕え、後に家老となる。

重盈の家は、酒井吉之丞玄蕃と呼ばれ、代々藩内で重きを成した。重盈の後は、4代重栄、5代重喬、6代重頼、7代了知、8代了安、9代了繁、10代了明、11代了恒、12代了敏、13代調良と続く。

子孫の中でも、戊辰戦争で活躍した了恒(玄蕃)、その弟で庄内柿の生みの親の調良、同じく弟で書家の黒崎研堂は高名である。

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脚注

参考文献

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