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酒井藤兵衛

日本の浮世絵の版元、浮世絵商兼収集家 ウィキペディアから

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酒井 藤兵衛(さかい とうべえ/とうひょうえ、弘化元年(1844年)-明治44年(1911年3月15日)は、明治時代の浮世絵版元、浮世絵商兼収集家

来歴

酒井家は信濃国(現・長野県松本で諸式問屋をしており、豪商として知られていた。6代目の平助(1776年‐1842年)は寛政の頃に干支倉といわれる蔵を12個構えていた。この平助が文人墨客を好んだため、江戸から葛飾北斎歌川広重のほか、歌川派浮世絵師たちが多く出入りしていたといわれ、自ずと浮世絵を集めるようになったという。7代目の理兵衛(1810年‐1869年)は江戸の狂歌師の間でもその名を知られ、広重による『百人一首鐘声抄』にその肖像が描かれている[1]。この理兵衛のとき、佐久間象山から「好古堂」の号を授かったとされる。

8代目の藤兵衛は1870年(明治3年)、東京へ進出、神田淡路町2-4に酒井好古堂を開業し、肉筆浮世絵などの収集とともに浮世絵の複製、復刻、頒布を手がけるようになる。劇書『古今役者物語』(写本)など浮世絵に関連する資料収集にも熱心であったことは、西尾市岩瀬文庫が『古今役者物語』を所蔵した経緯に伝わっており、酒井好古堂の顧客に坪内逍遥がいたことがわかる[注 1]

1903年(明治36年)、『写楽名画揃』[3]、翌1904年(明治37年)『歌麿名画揃』[4]を刊行した。1906年(明治39年)9月には木挽町の万安楼で浮世絵商仲間の村田金兵衛(長生舘)、吉田金兵衛(章林堂)[5]、吉田竹次郎[6]、黒崎惣吉、渡辺庄三郎、諏訪松之助[7]とともに7人で「福寿会」という浮世絵の交換会を開催している。その後、1907年(明治40年)6月、自著『浮世絵手鑑』を好古堂から刊行する[注 2]1911年(明治44年)没。享年は数えで68。 墓所は台東区谷中の信行寺。

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著書

  • 『写楽名画揃』東洲斎写楽 (画)、好古堂、東京、1903年。doi:10.11501/2533724全国書誌番号:40070258
  • 喜多川歌麿 (画) 著、酒井藤兵衛 (編) 編『歌麿名画揃』好古堂、1904年。doi:10.11501/850026全国書誌番号:40069834 図版23枚
  • 酒井藤兵衛『浮世絵手鑑』好古堂、1907年。 NCID BB03733698
  • 安藤広重 (画)、酒井藤兵衛 (臨写)『広重近江八景』好古堂、1907年。doi:10.11501/851542全国書誌番号:40070736 1帖
  • 葛飾北斎 (画)、酒井藤兵衛 (臨写)『富岳三十六景七種』好古堂、1907年。doi:10.11501/851550全国書誌番号:40070742

出版物

版元として刊行した主な書籍は次が知られている。

  • 佐山半七丸『都風俗化粧傳』 1巻、速水春暁斎 (挿絵)、酒井藤兵衛、1813年。doi:10.11501/1885690 NCID BA42656046[9]下巻首によると書名は『都風俗化粧傳 : 女子愛敬』。
  • 佐山半七丸『女子風俗化粧秘傳』 2巻、速水春暁斎 (挿絵)、酒井藤兵衛、1813年。doi:10.11501/1885696 NCID BB22809312
  • 佐山半七丸『女子風俗化粧秘傳』 3巻、速水春暁斎 (挿絵)、酒井藤兵衛、1813年。doi:10.11501/1885704 NCID BB00611082
  • 馬島杏雨 (馬島芳・序)『画銭譜』酒井藤兵衛、ほか2肆、1899年。2巻2冊

脚注

関連項目

参考図書

関連文献

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