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針塚長太郎
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針塚 長太郎(はりづか ちょうたろう、明治4年11月30日?(1872年1月) - 1949年(昭和24年)9月21日)は戦前日本の蚕業教育者。群馬県渋川市出身。高等師範学校教授、文部省視学官、上田蚕糸専門学校(信州大学繊維学部)初代校長・名誉教授。
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生涯
要約
視点
生い立ち
明治4年11月30日?(1872年1月)[2]群馬県群馬郡豊秋村中村22番地の篤農家針塚喜惣治の長男として生まれた[3]。
1878年(明治11年)4月中村小学校に入学[4]、四明尋常高等小学校高等科を経て[3]、1885年(明治18年)3月木檜中学校(群馬県立前橋中学校の前身校)に進学した[4]。
父には農家の跡取りとして厳しく育てられ、母の説得で学校に通うことは許されたものの、家では朝から晩まで農作業に励み、近所では「早やの長さん」として知られた[3]。
上京

1888年(明治21年)10月地元の十日夜祭のため砂糖を買いに上京した際啓発を受け、東京進学を決心した[3]。1889年(明治22年)3月中学校を中退し、地元の小学校で代用教員を務めた後、7月東京農林学校予科1年級に入学した[3]。
1890年(明治23年)9月帝国大学農科大学予科2年級に編入し、1893年(明治26年)7月農学科に進学した[4]。渋谷村金王八幡宮近くの草葺家屋で同級生鈴木梅太郎・菊地亀千代・望月滝三等と自炊生活を行い、自炊堂と号した[3]。
官僚時代

1896年(明治29年)7月農学科を卒業し、1897年(明治30年)6月拓殖務省に入省したが、間もなく廃省となり、11月農商務省横浜生糸検査所に勤め、12月西ヶ原蚕業講習所に兼務した[4]。
1898年(明治31年)5月文部省実業教育局に入り、11月専門学務局に転じ、1899年(明治32年)6月高等師範学校教授を兼任した[4]。1900年(明治33年)11月図書審議官となり、1902年(明治35年)9月視学官を兼務、教科書編纂や教科細目調査に従事した[4]。
1906年(明治39年)2月松浦鎮次郎と文部省留学生に任命され、アメリカ合衆国・ドイツで農業教育を学んだ[4]。留学中の1907年(明治40年)3月には盛岡高等農林学校教授の名義を与えられた[4]。1908年(明治41年)5月帰国し、文部省視学官に復職した[4]。
上田蚕糸専門学校長

長野県に蚕糸専門学校の設置が計画されると、1908年(明治41年)8月創立委員長に任命され、1910年(明治43年)5月米沢高等工業学校長事務取扱として必要な設備等を調査し、8月13日上田蚕糸専門学校長に就任した[5]。専門学校では絹糸紡績科・教婦養成科の新設に関わったほか、柔道・剣道などの武道教育に力を入れた[6]。
1918年(大正7年)2月教授勝木喜董の解任に対し、養蚕科1年生岸本元治・山本岩三郎・間宮成吉等が反発し、革命団と称して校長刷新を求めストライキを起こした[7][8]。ストは1週間で終息し、4月勝木喜董は離職した[9]。
1924年(大正13年)朝鮮・関東州・満州の蚕糸業を視察して有望と見込み、卒業生の大陸への就職に力を入れた[10]。1936年(昭和11年)、1940年(昭和15年)にも満州を訪れている[10]。
1927年(昭和2年)8月東京朝日新聞により盛岡高等農林学校へ転任内定と誤報され、卒業生により留任運動が行われた[9]。
1937年(昭和12年)の勲一等瑞宝章受章を機に、1938年(昭和13年)3月31日校長を辞職し、井上柳梧が後任に就いた[11]。
帰郷

1938年(昭和13年)5月上田市長成沢伍一郎の辞任に際し、後任の要請を断り[12]、1940年(昭和15年)5月4日帰郷して新築家屋に住み、帯経草堂と号した[13]。
太平洋戦争が勃発すると、妻の宝石・功労賞品・乳母車・山林等を進んで供出した[14]。娘婿は次々に出征し、1944年(昭和19年)6月七女貞子、12月五女美津枝、1945年(昭和20年)3月三男正樹が実家に戻り、15人の大家族で畑を耕し、食糧を自給した[14]。
1942年(昭和17年)2月25日妻ノブ[13]、1944年(昭和19年)12月七女貞子を喪い[4]、1945年(昭和20年)5月東京大空襲で青山の持家2軒を焼失した[14]。戦後は農地改革により田畑を手放し、社会の道義的退廃を嘆きながら日々を過ごした[14]。
死去

1946年(昭和21年)群馬県選挙管理委員長に任命され、老体を押して前橋へ通勤した[14]。1947年(昭和22年)春老人性痒疹に罹り、左耳が聞こえなくなった[14]。11月風邪を拗らせ肺炎となり[15]、1947年(昭和22年)7月選挙管理委員長を辞任した[14]。
1949年(昭和24年)夏頃から肋間神経痛を頻発[15]、持病の狭心症も悪化[16]、9月21日昼食中に胸痛を訴え、午後2時半頃心臓麻痺により死亡した[15]。
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著書
趣味・特技

農科大学時代、渋谷の自炊堂から徒歩で小石川区講道館に通い、柔道の稽古を受けた[3]。1923年(大正12年)から1940年(昭和15年)9月まで長野県柔道有段者会会長を務めている[17]。
上田時代、東福寺村から観世流高橋清輝を学校に招いて謡曲を学んだ[18]。また、教授大滝照太郎には日本刀収集の手ほどきを受け、卒業生の出征に際して日本刀を贈り[18]、嫡男正樹には「刀剣は国宝なり、逸散すべからず。」と遺言した[18]。
若くから俳画を嗜み、上田時代、教授和田仙太郎の紹介で正村竹亭に南画を学んだ[18]。
動物好きで、家では犬・猫を買い、ブチ五郎[16]・ミー[19]などと名付けていた。学校の牧場には2頭の馬を所有し、元気号・努力号と名付けていた[20]。
針塚賞
1938年(昭和13年)退官時の謝恩金の一部を元に設立され、上田蚕糸専門学校で毎年優秀な学生・卒業生に針塚賞が贈られたが、大学改組の際、成績が非公表となったことで廃止された[12]。
2004年(平成16年)信州大学繊維学部で卒業生への表彰制度が新設された際、偶然にも同名の針塚賞と名付けられ、毎年優秀な卒業生に授与されている[21]。
栄典
親族
実家

婚家

子女



- 長女:梅子 - 戦時中神戸大空襲で被災し、間庭家に疎開した[14]。
- 次女:輝子[4]
- 三女:ふぢ枝[4]
- 長男:俊一 - 1933年(昭和8年)2月夭折[4]。
- 次男:克海 - 1922年(大正11年)9月[4]骨髄炎で夭折[31]。
- 四女:百合子[4]
- 三男:正樹 - 1945年(昭和20年)3月実家に疎開した[14]。農林省蚕糸試験場養蚕部長[33]。
- 嫁:宇高光子[4]
- 五女:美津枝 - 1944年(昭和19年)12月一家で実家に疎開した[14]。
- 婿:野口平吉[4]
- 六女:ふみ子 - 生後3日で没[4]。
- 七女:貞子 - 1944年(昭和19年)6月実家に疎開するも[14]、1944年(昭和19年)12月[4]腸チフスで死去[34]。
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脚注
参考文献
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