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長井荘
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概要
前史
平安時代後期の12世紀頃、古代の置賜郡の分割が行われ、置賜東・南部に摂関家領成島荘(現在の米沢市)・屋代荘(高畠町)、そして北部に北条荘(南陽市)が成立する。その時長井郷(長井市)を中心とする西部(後の下長井)は公領であったと推測される[1]。平安時代中期の郡衙遺跡と推定される道伝遺跡[2]がこの地域にあったことも影響していると考えられる。
成立と変遷
文治5年(1189年)大江広元が地頭に補任され、成島荘・屋代荘・北条荘に加え公領を含めた置賜郡の地頭となる。置賜郡は広元の次男長井時広に相続され、鎌倉時代中期に長井荘の呼び名が初めて見られる[3]。
南北朝時代の元中2年/至徳2年(1385年)置賜郡を治めた長井氏が伊達氏の侵攻により滅ぶと、置賜郡一帯が長井荘と呼ばれるようになる[4][5]。その一方で段銭帳では上長井荘[6]・下長井荘[7][8]と分割して見られる[9]。なお、伊達氏の領国化により成島荘が上長井荘へと変化している[10]。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いを目前にした徳川家康は伊達政宗に、苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井の旧領7か所の回復を約束した、いわゆる百万石のお墨付を与えた。この判物に添えられた知行目録によれば長井は7か所のうち最大の石高17万7,933石分を占めていた(『山形県史15上』伊達家文書)。この時の領域は置賜郡のほぼ全てを示している。
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特産品
出典
参考文献
関連項目
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