トップQs
タイムライン
チャット
視点

長岡是容

ウィキペディアから

Remove ads

長岡 是容(ながおか これかた)は、江戸時代末期(幕末)の武士熊本藩家老米田是睦の長子。通称の監物(けんもつ)の名で知られる。

概要 凡例長岡 是容, 時代 ...

生涯

文化10年(1813年)、熊本藩家老・米田是睦の長子として誕生。

天保元年(1831年)、家老見習いとして出仕し、天保3年(1833年)に父が死去すると1万5,000石の所領を襲封し、藩家老となって江戸藩邸で藩主細川斉護に仕えた。横井小楠下津久馬と共に協力して藩政改革に取り組み、文武芸倡方として藩校の時習館改革などに尽力し、荻昌国元田永孚らを加えて会読会を開き、実学党と呼ばれる一派を形成した。

しかし改革に反対する保守派である学校派の家老・松井佐渡(=10代当主松井章之)の反対を受け挫折。弘化4年(1847年)、親しくしていた水戸藩主・徳川斉昭が隠居させられると、それによって是容も家老職を辞職させられた。

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリーが再来航したのを契機として家老職に復帰を許され、浦賀の守備隊長として江戸詰を任じられた。江戸において徳川斉昭、藤田東湖吉田松陰西郷隆盛らと盛んに交流した。しかし攘夷論者であったため、安政2年(1855年)に開国論を唱えて沼山津派(新民派)を形成した友人の小楠と対立し、自らは坪井派(明徳派)を形成して対抗し、かえって熊本藩にさらなる混乱の種を生むこととなった。

安政6年(1859年)、引退先の采邑八代で死去。

Remove ads

脚注

登場作品

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads