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長森稲荷社
神奈川県川崎市多摩区にある神社 ウィキペディアから
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長森稲荷社(ながもりいなりしゃ)は、神奈川県川崎市多摩区にある法華神道系の神社。神仏分離が行われた後も別當寺の日蓮宗法言山安立寺によって祭祀が行われており、従って神社本庁には所属していない。境内は安立寺の開基檀越家・佐伯家の敷地で、社殿等は氏子講中である長森稲荷講によって護持されている。なお、祈願・朱印等は安立寺にて受け付けている。






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祭神
主神
- 長森稲荷大明神
配神
- 海光耀大明神
- 星夜大明神
眷属
- 長現金狐神
- 渡一銀狐神
- 阿通紅狐神
- 阿參玄狐神
- 阿權白狐神
歴史
『江戸名所図会』[1] 及び『新編武蔵風土記稿』[2] の記述を踏まえ、長森稲荷社では次のような縁起を定めている。[3]
伊予国宇和島出身の相馬左仲という浪人が、元禄10年(1697年)に京の鳥羽縄手で一人の美女に出逢った。この美女は自らを「伏見藤森長森明神の眷属・渡一銀狐神である」と名乗ったという。翌11年(1698年)4月20日に再び同様の霊験を得た左仲は神告に随って江戸に赴いた。縁あって麻布日ヶ窪(現在の六本木ヒルズ辺り)の住人・中原与兵衛にこの霊験を伝えたところ与兵衛は感じるところがあり、自ら五寸ばかりの長森稲荷大明神の神体を彫刻し邸宅内に勧請した。その後、正徳5年(1715年)に左仲が没すると一子・相馬加藤次に神体が譲られたが、元文5年(1740年)11月に与兵衛の外孫(娘の子)・佐伯助五郎重真に継承される事となり、佐伯氏の氏寺である安立寺[4]の主僧・日現[5]によって現在の地に遷座されたという。
この時から安立寺が長森稲荷社の別當寺となり、歴代住持職が別當職を兼務し今日に至っている。なお、中原与兵衛刻と伝えられる神体は安立寺庚申堂の三十番神の一として納められている。
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境内
- 社殿(本殿)
佐伯助五郎重真によって寄進された境内に建立されている。現在の社殿は昭和26年(1951年)10月に改築されたもので約1間四面の朱塗り向拝別流造である。殿内には重真が奉納した巻物図像形式の神体を祀っており、この巻物には主神である長森稲荷大明神の他に、配神として海光耀大明神・星夜大明神が、眷属として長現金狐神・渡一銀狐神・阿通紅狐神・阿參玄狐神・阿權白狐神が、それぞれ描かれている。また神体を納める朱塗りの厨子は安立寺本堂に祀られている祖師像を納めていたものと考えられ、明治5年(1872年)11月22日に第11代別當・玄薩院日應によって奉納された。その後、令和5年(2023年)11月22日に第22代別當・玄明院日燈(木田隆正)によって社殿及び厨子の修繕が行われた。
安政3年(1856年)2月初午[6]の寄進。奉納主は新橋の大和屋直吉・糸屋喜兵衛・東屋吉五郎と赤坂の大塚屋久治郎・山本半兵衛・橋本長吉・東屋熊次郎等の商人衆であり、江戸府内からも多くの参詣者があった事が窺える。
明治26年(1893年)1月に建立された石造の明神鳥居。[7] 左柱の藁座に“信徒世話人/稲田村宿河原 城所駒太郎/仝 大津福太郎/仝登戸 廣澤六右エ門/仝菅 西山源八/向丘村稗原 藤田源右エ門/生田村栗谷 岸喜三郎”銘が、右柱の藁座に“田所/發起人/佐伯美佐太/仝 妻 マス/社世話人/佐伯孫三郎/佐伯勘次郎 代”銘が、それぞれ刻まれており、当時は安立寺の全檀信徒を始めとする近在の住人が長森稲荷講の講中として所属していた事が分かる。
- 幟立て
明治38年(1905年)2月初午[8]の建立。右の幟立てに“東京市芝區愛宕下町四ノ一/海軍省御用製絹業/太田衛/妻 とく[9]/倅 義雄”銘がある。
歴代別當
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年中行事
- 毎月22日:例祭
- 2月初午:初午大祭
- 9月下旬~10月上旬:御神田抜穂祭
- 10月中旬:秋季大祭
交通
近隣施設
脚註
参考文献
関連項目
外部リンク
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