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門岡信行

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門岡 信行(かどおか のぶゆき、1943年9月3日 - )は、大分県[1]出身のプロ野球選手。ポジションは投手

概要 基本情報, 国籍 ...

来歴・人物

大分高田高校では2年生でエースとなり、1960年夏の甲子園中九州予選決勝に進出するが、熊本商に敗退。翌1961年夏には中九州大会決勝で熊本工を降し、夏の甲子園に初出場[1][2]。結果は1回戦で高橋善正を擁する高知商に5-0で敗れる[1][2]。敗戦後に帰路で乗っていたフェリーの中で門岡は中日ドラゴンズへの入団表明をしたが、プロスカウトとの接触・交渉は退部届提出後と規則で決まっており、これを破ったとして高野連は高田高校に対して1962年8月まで約1年間の対外試合禁止処分を下した(門岡事件)。

中日へ入団した門岡は1年目に53試合に登板し、スライダーフォークを武器に10勝10敗と2桁勝利を記録[1]規定投球回(16位、防御率3.00)にも達する。10勝は高卒新人としてはセ・リーグ歴代4位、53登板は高卒新人のセ・リーグ記録。2年目に右肩を負傷し、その後は主に中継ぎで起用される。しかし1967年に先発に復帰し、9勝9敗と1年目に次ぐ成績を挙げ[1]、2度目の規定投球回(19位、防御率3.60)に達した。翌年からは先発として結果を残せず、登板機会も減り、1970年限りで引退した。その後は郷里で飲食店を経営していた。

兄の門岡良典1961年から2年間大毎オリオンズに在籍し、わずか1試合の出場に終わっているが、これは翌年卒業する弟の信行を獲得するためだったと言われている[3]

1969年には偵察要員として1試合だけ一塁手として先発出場した。

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エピソード

  • 母校の高田高校のグラウンドのプレハブ小屋には、中に黒土と「甲子園の土」と書かれた紙切れが入った小さなポリ袋が長年保存されている。門岡らを擁して同校が甲子園初出場を果たした時に持ち帰ったものであると野球部では語り継がれているが、門岡や当時のマネージャーらの証言によると「持ち帰った土は学校のグラウンドにまいたはず」であるという。別の時期に甲子園球場から持ち込まれたものであるという説もあるが、真相は不明である[2]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 24 (1962年 - 1970年)

脚注

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関連項目

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