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関恒義
日本のマルクス経済学者 ウィキペディアから
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関 恒義(せき つねよし、1924年(大正13年)9月27日 - 2013年(平成25年)10月23日)は、日本のマルクス経済学者。一橋大学名誉教授。日教組大学部執行委員長、行財政総合研究所副理事長、日本科学者会議『日本の科学者』編集委員長等を歴任した。
経歴
1924年、長野県長野市生まれ。長野師範学校附属小学校(現信州大学教育学部附属長野小学校)、旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、東京府立第十中学校(現東京都立西高等学校)を経て、1942年に旧制東京商科大学(現一橋大学)予科入学[1]。同期の川勝堅二(元三和銀行頭取)や本間要一郎(横浜国立大学名誉教授)とともに小平市の一橋寮に入寮したが、ストームで小便を飲まされ退寮する[2][3]。その後、学徒出陣で仙台陸軍予備士官学校を経て、大日本帝国陸軍少尉となる。
終戦後、大学に復学し、中山伊知郎ゼミで学んだ[1]。1948年に東京商科大学を卒業。1948年より東京大学理学部数学科研究生として弥永昌吉ゼミに参加し[1]、二階堂副包や赤摂也とともに数学の研究をつづけた。赤摂也の妹と結婚[4]。
1949年、母校の東京商科大学助手に着任。1953年一橋大学経済学部専任講師。1957年に助教授、1966年に教授に昇進。1988年に一橋大学を定年退職し、名誉教授となった。学外では、1984年より日本教職員組合大学部執行委員長。また、行財政総合研究所副理事長、日本科学者会議『日本の科学者』編集委員長もつとめた[1]。
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研究内容・業績
- マルクス経済学の立場から近代経済学を批判する一方、経済学への数学の導入を評価し、二階堂副包や松坂和夫の一橋大学招聘に尽力した。また、学生の指導でもマルクス経済学と近代経済学の両方の修得や、数学の利用を推奨した[5][1]。
- 指導学生には寺西俊一一橋大学名誉教授[6]や、西村可明一橋大学名誉教授[7]、久保庭眞彰一橋大学名誉教授[8]、長谷部勇一横浜国立大学学長、良永康平関西大学副学長[9]、盛田常夫元法政大学教授[1]、横倉弘行中央大学名誉教授[10]、源河朝典岡山大学名誉教授[11]、音無通宏中央大学名誉教授[11]、北川和彦立教大学名誉教授、屋嘉宗彦法政大学名誉教授[12]などがいる。他にマーケティングコンサルタントの西川りゅうじん[13]、元日本共産党『経済』編集長の友寄英隆[11]、柚木治ジーユー社長なども関ゼミ出身[14]。
著書
単著
共編書
訳書
脚注
外部リンク
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