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関田駒吉
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関田 駒吉(せきだ こまきち、1875年(明治8年)2月15日 - 1939年(昭和14年)11月5日[1])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
来歴
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1875年(明治8年)2月15日、高知県長岡郡大篠村(現在の南国市)に生まれた。初め宮地氏を称し、3歳にして父に別れ、醫家関田修斎に養われて、その家を継いだ。[2][3][4]夙に才学に秀で、海南学校より海軍兵学校に進学し卒業[5](24期)。明治30年10月、少尉候補生を命ぜられるとともに軍艦比叡乗組となり、後、松島や厳島に転じ、翌年4月1日海軍少尉に任ぜられ、尋いで5月10日正八位に叙せられた。宇治艦長、最上艦長、松江艦長、満州艦長などを歴任。のち少将を任官。退役後は郷土史の研究をした余生を過ごした。行年65歳。
駒吉は出身の海軍が象徴する船舶に興味を持ち、「廻船大法」が北条義時の命によって兵庫、浦戸、坊の津の代表が集まって貞応2年(1223年)に制定されたとする奥書を偽物とし室町期に瀬戸内海の水軍、村上水軍の活動を示すものと論じた[6]。また、土佐南学伝統が南村梅軒が始祖とあるのに疑問を持ち、吸江寺の学統であるとし、それぞれの学説を発表した。
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栄典
- 位階
- 勲章等
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[9]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲五等双光旭日章・明治三十七八年従軍記章[10]
親族
・父:関田修斎
脚注
参考資料
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