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青樹英二
実業家・政治家 ウィキペディアから
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青樹 英二(あおき えいじ、1843年3月25日(天保14年2月25日[1]) - 1916年(大正5年)4月3日[2])は、美濃国安八郡五反郷村出身の実業家・政治家。
人物
美濃国安八郡五反郷村の庄屋、片野萬右衛門の次男としてこの世に生を受ける[3]。
1850年(嘉永3年)から相次ぐ福束輪中堤の決潰に遭遇し、治水事業の重大さを痛感すると、被災者救済のため父に協力し、兄南陽と共に活躍した。
明治4年、尾張国海西郡東條村の戸長青樹家の婿養子となり、改姓[3]。戸長として村を合併し、1873年(明治6年)には潜思学校を設立し自ら教壇に立った[3]。
1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙で、愛知6区から出馬し衆議院議員に当選[3]。
1893年(明治26年)、津島紡績会社を設立し、同社社長となる[3]。同時に津島銀行を設立し、同行監査役に就任する[3]。1898年(明治31年)、尾西鉄道を設立し、同社社長にも就任する[3]。1905年(明治38年)には、宝川に宝川排水機場を開設[3]。1909年(明治42年)、海部郡市江村長となった[3]。
業績
愛知県議会議員や衆議院議員に当選し、地方自治と国政に参画した一方、地域の発展のため、多彩な事業を企画し、成果を挙げた。公益を優先し、ユニークな発想と創意、旺盛な行動力がモットーだった。
新田開発の他、津島貿易会社、津島銀行、尾西鉄道などを設立し、産業発展に尽くした。
日本で最初に蒸気機関を利用し、蒸気排水機場を設置した。1905年(明治38年)宝川に宝川排水機場を開設。この大事業は、田を走る汽車と人々から注目を浴びた。英二は蒸気機関車が走っている姿から、排水に蒸気を利用する発想を得たという。排水機場には、近隣の人々だけでなく他県からも見学者が訪れた。英二の故郷、福束輪中の人々、仁木村長牧野鉄九郎、福束村長中島豊之助の一行である。英二は故郷のために、大吉輪中の湛水を蒸気排水機で排水する協力を惜しまなかった。
1909年(明治42年)、大吉新田と西海松境の堤防沿いに蒸気排水機場が竣工。見事な高い煙突とレンガ壁の排水機場の完成を喜び、人々は唄にして祝った。
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家族・親族
片野家
略系図
脚注
参考文献
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