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須恵村

日本の熊本県球磨郡にあった村 ウィキペディアから

須恵村map
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須恵村(すえむら)は、かつて熊本県の南東部、球磨郡にあった。日本最初の「人類学者による農村調査」が行なわれた村としても知られる[1]

概要 すえむら 須恵村, 廃止日 ...

2003年4月1日、同郡内の上村免田町岡原村深田村新設合併し、あさぎり町となった。現在はあさぎり町須恵地区となっている。

小ねぎ生産が活発であった。

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地理

熊本県の南東部、球磨郡の中央に位置した。北部は面積の7割を占める山地と一部が畑地帯となっている。南部は水田地帯となっている。

歴史

  • 1889年明治22年)4月1日 - 町村制施行により須恵村が発足。
  • 1935年 - 1936年 - アメリカ合衆国の文化人類学者ジョン・エンブリー (1908年 - 1950年, John Embree) が部落社会の構造を実地調査し、「Suye Mura: A Japanese Village」(Chicago,1939)をまとめる。同書は日本文化理解の教科書、ルース・ベネディクト著「菊と刀」(1946年)の参考文献として挙げられた[2]。エンブリーの妻エラ(日本育ちで、のちに再婚してウィズウェル姓[3])もロバート・J・スミス英語版と共著で『須恵村の女たち』を1984年に出版した[2]。須恵村が選ばれたのは柳田国男の助言による[3]
  • 1971年 - 『変貌する須恵村 社会文化変化の基礎的研究』(牛島盛光、ミネルヴァ書房)刊行。
  • 1988年 - 上述のエンブリー調査のその後を追跡調査した『写真民族誌 須恵村 1935-1985』 (牛島盛光、日本経済評論社)刊行。
  • 2003年平成15年)4月1日 - 上村、免田町、岡原村、深田村と合併し、あさぎり町となり消滅。
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須恵村型

ジョン・エンブリーが調査した当時の須恵村は、一つの「村」、八つの「区」、十七の「部落」(集落)、多数の「組」で構成されていた[2]。エンブリーの研究は、行政体としての「村」と集落である「部落」を明確に区別していた点が当時の日本の民俗学農村社会学と比べて特異であった[2]。熊本県で最も小さかった須恵村は、エンブリーの研究によって日本の農村の典型として認知されるようになった[2]

地理学者水津一朗は、1957年に日本の集落(村落)を3つに類型化し、1つの大字が1つの集落に対応するものを「標準型」、基本的に1つの集落で1つの大字を構成するものの、内部に独立性の高い小集落を内包するものを「煙山村型」、そして1つの大字が複数の集落で構成されるものを「須恵村型」と呼んだ[4]。須恵村型は、中国地方の東部や南九州に多く見られる[5]

行政

平成の大合併

平成の大合併で深田村、免田町、岡原村、上村との合併計画は、当時所有林などの問題と高度経済成長も助けていたという理由もあったため、地方交付税過疎対策事業の恩恵のためにそれぞれの村々は合併を急がなくてもやっていけたため計画はいったんは流れたが、2003年平成15年)4月1日、上にあげた5町村が対等合併し、あさぎり町となることになった。

教育

産業

かつては石炭産業が盛んであった。1939年(昭和14年)4月28日には、亀山炭鉱でガス爆発があり、作業員10人が死亡する事故も発生している[6]

交通

道路

出身有名人

脚注

関連項目

外部リンク

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