トップQs
タイムライン
チャット
視点
飯尾氏
日本の氏族 ウィキペディアから
Remove ads
三善姓飯尾氏
要約
視点
『寛永諸家系図伝』によれば、三善清行の八男である僧浄蔵が二人の子をもうけ、一人は布施氏、もうひとりは飯尾氏の祖となったという[3]。実際には鎌倉幕府の問注所執事を務めた三善康信の子孫とみられている[4]。三善倫忠の代に新補地頭として阿波国麻殖郡飯尾村(現在の徳島県吉野川市鴨島町飯尾)に土着し、飯尾姓を名乗ったとされる[5]。『吾妻鏡』によれば文治3年(1187年)に康信が麻殖保の保司となったとされる[6]。六波羅探題の奉行人として複数の飯尾姓のものが確認されており、建武の新政期にも雑訴決断所の奉行人を務めるなど、事務官僚の家系であった[5]。
室町幕府においても奉行衆を勤めた。主要な家系では大和守系・加賀守系・肥前守系・下総守系・近江守系・美濃守系の六系統があり、大和守系・肥前守系・下総守系は特に幕府の有力な奉行衆として知られた[6]。
大和守系の飯尾貞連は同時期に奉行を務めたものの中で最も加判数が多く、唐船奉行や政所執事代を務めるなどと重用されていた[7]。大和守系嫡流は飯尾元行が出奔したために断絶したが、従兄弟である飯尾貞運が継承している[8]。
肥前守系の飯尾為種は足利義教に重用されたが、永享の山門騒動の影響で尾張国に一時流罪となった。まもなく復帰し、多くの寺社の奉行人となり、絶大な権勢をふるった[9]。子の飯尾為数も政所執事代を務めるなど活躍したが、応仁の乱の際に西軍に通じたとして足利義視によって殺害された[10]。
その他一族が南北朝時代以降細川氏・三好氏の被官として見られる[5]。阿波細川氏に仕えた飯尾常房は書家として知られ、「飯尾流」を創始している。
遠江飯尾氏
遠江国引馬城(後の浜松城)主を努めた家系。飯尾長連の代に今川氏譜代の家臣となったと伝えられている。
しかし、『宗長手記』によれば長連は三河吉良氏の家臣で遠江国浜松荘の代官を務めており、今川義忠が遠江に侵攻した際にこれに加勢をしようとしたが、義忠と共に駿河に撤退する際に討たれたと記されている。これを裏付ける史料として、『山科家礼記』応仁2年(1468年)7月5日条に「吉良殿内飯尾善四郎」という人名が記載されていることが挙げられる。善四郎は飯尾氏代々の当主の通称であり、飯尾氏が今川氏譜代ではなく吉良氏家臣であった事実を裏付けている。吉良氏の家臣には巨海氏や狩野氏のように義忠に抵抗した者もおり、今川派の長連は彼らとの争いに敗れたと考えられている。その後、吉良氏は遠江守護の斯波氏の要請に応える形で長連の子である賢連ではなく、親・斯波氏とみられた大河内貞綱を代官に任じている。吉良氏はこの争いには中立を保とうとしたようであるが、浜松荘と引馬城を巡って貞綱を支持する斯波義達と賢連を支持する今川氏親が争う形となり、永正5年(1508年)に今川氏親が斯波義達から遠江守護職を奪い、永正14年(1517年)には斯波義達を捕虜として遠江全域を支配した。その結果、吉良義堯は今川氏親の娘婿となって和睦する代わりに遠江から撤退し、飯尾賢連は氏親から浜松荘と引馬城を与えられて今川氏の被官となった[11]。
戦国時代、賢連の子乗連は今川義元に桶狭間の戦いで従軍し、討ち死にした。乗連の子飯尾連龍は初め義元の跡を受けて家督を継いだ今川氏真に仕えたが、三河の徳川氏に内通し、今川氏から離反した。その後、今川氏真から和睦と偽った召喚に応じた連龍が誅殺されたために、遠江飯尾氏の嫡流は絶家した。
系譜
Remove ads
平姓飯尾氏
織田氏の一族清洲の守護代「織田大和守家」の織田敏宗(または織田敏定)の子が尾張国の土豪飯尾氏の養子となり、飯尾定宗と名乗ったことに始まる。定宗は織田信長に仕え、桶狭間の戦いで討ち死にした。定宗の跡を継いだ尚清(信宗)は赤母衣衆となり、本能寺の変後、織田信雄、さらに豊臣秀吉に仕えた。嫡子敏成は尚清に先立って死去していたため嫡流は絶家したが、庶流の尚清の弟飯尾重宗の系統が続く。重宗には嫡子敏隆がいたが早世したため、敏成の弟を養子として永沼と名乗らせた。
系譜
Remove ads
参考文献
- 國原美佐子「唐船奉行の成立 : 足利義教による飯尾貞連の登用」『東京女子大学紀要論集』第44巻第2号、東京 : 東京女子大学、1994年、ISSN 04934350、NAID 110006000558。
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads