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駐日イタリア大使館

イタリアが東京に設置している大使館 ウィキペディアから

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駐日イタリア大使館(ちゅうにちいたりあたいしかん、イタリア語: Ambasciata d'Italia in Giappone英語: Embassy of Italy in Japan)は、イタリア日本首都東京に設置している大使館である。在東京イタリア大使館イタリア語: Ambasciata d'Italia a Tokyo)とも呼称される[1]

概要 駐日イタリア大使館 Ambasciata d'Italia in Giappone, 所在地 ...

歴史

幕末1866年に日伊修好通商条約を締結したことで日伊両国の間に初めて外交関係が結ばれたが、国交樹立直後の駐日イタリア外交使節団がどこに代表部を置いていたかは定かではない。現在のイタリア大使館がある敷地は、かつて伊予松山藩であったものを1924年まで松方正義公爵が住居として使っていた邸宅(旧松方公爵邸)であった[1]

松方公爵没後の1928年日本政府から新しいイタリア大使館の敷地所として旧松方公爵邸へ移転することを提案され、翌1929年に両者の間で合意がまとまり、1932年に旧大使館を引き払って現在の三田二丁目(綱町)の敷地に移転した[1]。なお1928年には日光中禅寺湖畔にアントニン・レーモンド設計の大使館別荘を建設、1997年まで使用されている(のちに栃木県が買い取り、「イタリア大使館別荘記念公園」として一般公開された)。

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サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RTの前に立つ日伊の軍関係者(1942年7月)

第二次世界大戦中は、1942年7月に来た連絡機でわずかながら本国との手紙で連絡が取れたものの、1943年9月のイタリアの敗戦後には日本が承認したイタリア社会共和国側に付くか、連合国側のイタリア王国側につくかでその地位が明確に振り分けられた[2]

イタリア大使館内でイタリア王国側についたものはマリオ・インデルリ大使以下武官を含む約50人で、2人のみがイタリア社会共和国側についた。その後イタリア社会共和国側についた者もおり、代理大使としてオメロ・プリンチピニが就任した。イタリア社会共和国側につくことを拒否したものは、警察の監視下のもとで外交官は東京の田園調布にあるサンフランシスコ修道院で終戦までの間を過ごした[3]。その後、1945年4月の東京大空襲で大使官邸が焼け落ちて事務所もかなりの被害を受けてしまった。大戦末期には大使館の拠点を軽井沢尾崎行雄別荘に移転、また箱根富士屋ホテルにも大使館員が疎開した。

1960年代にイタリアの建築家ピエール=フランチェスコ・ボルゲーゼ (Pier Francesco Borghese) と日本の建築家村田政真によって改築案がまとめられ、ボルゲーゼと村田が考案した設計に基いて1965年に新しい大使館が竣工されて、現在に至っている[1]

敷地内にはイタリア大使の公邸のほか、各省庁の事務所棟が併設されている。また、フェラーリをはじめとする各イタリア企業の発表会やパーティなどにも使用されている[4]

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所在地

さらに見る 日本語, 英語 ...

大使

2021年10月27日より、ジャンルイジ・ベネデッティ特命全権大使を務めている[6]

ギャラリー

出典

関連項目

外部リンク

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