トップQs
タイムライン
チャット
視点

高木貞友

ウィキペディアから

Remove ads

高木 貞友(たかぎ さだとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将旗本美濃衆東高木家初代。

概要 凡例高木貞友, 時代 ...

生涯

高木貞久の子として誕生した。父の代から織田信長に仕え、天正3年(1575年長篠の戦いでは氏家氏に属して武功があった。天正6年(1578年播磨国神吉城攻めに従軍。天正10年(1582年本能寺の変後は織田信孝に仕え、天正11年(1583年)信孝が自殺したために自領の駒野に閉居するが、同年に父・貞久も死去したため駒野城主の座を継ぐ。天正12年(1584年羽柴秀吉の誘いを断り、母を証人として織田信雄に従った。小牧・長久手の戦いでは加賀野井城竹ヶ鼻城攻めに従い、また駒野城に籠城して羽柴方と戦った。天正18年(1590年小田原征伐では土方雄久隊に属して戦った。戦後、信雄が改易されると一族と共に加藤光泰を頼る。文禄元年(1593年文禄の役では光泰に従って朝鮮半島に渡海し、軍との戦いで戦功があった。

慶長2年(1597年徳川家康に召し抱えられ、上総国望陀郡に60石余を、翌年には500石を領した。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは東軍先鋒の美濃国尾張国の案内役として井伊直政本多忠勝に附属。道中の駒野城は徳永寿昌に差し出している。慶長6年(1601年)これらの軍功により美濃石津郡に加増転封されて1000石を領した。慶長19年(1614年大坂冬の陣では枚方に布陣、翌年の夏の陣では平野での戦いで首級をあげた。幕政では駿府城二条城普請の奉行、徳川秀忠上洛の際の舟割奉行を務めた。

当初は今村貞長を婿養子に迎えていたが、後に離縁し、孫の貞次法泉寺流済の子)が養子となって家督を相続した。

Remove ads

出典

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads