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高松悟峰
日本の僧 ウィキペディアから
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高松悟峰(たかまつ ごほう、1866年[1]2月15日(慶応2年1月1日) - 1939年(昭和14年)7月2日)は、浄土真宗本願寺派の勧学[2]。1906年(明治39年)に創立された宗学専門私塾真宗学寮の初代学頭になり[3]、真宗学寮に広島仏教学院が併設されてからは、その初代院長[4]を兼任した。髙松悟峰[2]、高松悟峯[3]とも表記する。
経歴
1866年(慶応2年)安芸国安芸郡中野村(現在の広島県広島市安芸区中野)の随泉寺に次男として生れる[2]。幼名を秀若(ひでわか)といった[2]。
20歳のとき足利義山に師事し、24歳で得度[2]。法名を悟峰と授けられる[2]。同じ年、本願寺大学林(現在の龍谷大学)高等科に編入し、卒業後、富山徳風教校の教授に就任した[2]。1898年(明治31年)同教校を辞任して、広島西向寺の髙松家に入籍し、2年後に住職となる[2]。その後、進徳教校の教授を経て[2]、1906年(明治39年)に創立された宗学専門私塾真宗学寮の初代学頭に就任する[3]。以来30数年にわたり地元学寮で子弟の教育教化にあたる[2]。その間、46歳で司教、55歳で勧学職となる[2]。1923年(大正12年)には真宗学寮に広島仏教学院が併設され、初代院長に就任[4]。真宗学寮の学頭職と兼任した[3] [4]。
司教、勧学職にあった間、多くの講義録・著書を出版し、『大無量寿経講義』『真宗教典釈義大綱』『観経四帖疏講述』『元高両祖要題』『往生論註撮要』などを残す[2]。1926年(大正15年)発刊の聴聞誌『宝章』には毎月欠かさず法話を掲載した[2]。
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著書
脚注
参考文献
外部リンク
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