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魏志倭人伝

中国の歴史書『三国志』の「魏書」第30巻の東夷伝倭人条の略称 ウィキペディアから

魏志倭人伝
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魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝うがんせんびとういでん倭人条の略称[注釈 1]。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた[1]

概要 著者, 発行日 ...
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概要

『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく[注釈 2]、『魏書』巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の一部に倭の記述がある。 中国の正史中で、はじめて日本列島に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している[2]

当時の(後の日本とする説もある)に、女王が邪馬台国に都を置く倭国が存在し、またこれに属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本列島を知る史料となっている。

景初2年(238年)に、邪馬台国女王卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着したとあり、これが事実であれば、拝謁した皇帝は曹叡ということになるが、この遣使の年は景初3年であるという異説(梁書倭国伝など)もあり、その場合には使者が拝謁したのは曹芳ということになる[3]

しかし、必ずしも当時の日本列島の状況を正確に伝えているとは限らないこと[4]から邪馬台国に関する論争[5]の原因になっており、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者も一定数いる。岡田は、位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠けるとの見解[6]を述べている。宝賀寿男は「『魏志倭人伝』が完全ではなく、トータルで整合性が取れていないし、書写期間が長いのだから、手放しで同時代史料というわけにはいかない。『魏略』は『三国志』より先行成立は確実とされるが、現存の逸文には誤記も多い」ことを指摘している[7]。さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は、『三国志』の「魏書」と同様に魏志倭人伝は著者である陳寿が実際に朝鮮半島や日本に訪問して書かれた文献ではなく、あくまで噂や朝鮮半島や日本に訪問したことがある人々からの聞伝えで書かれていて信憑性には疑問があると述べている。また『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪んだ記述)が含まれている」との見解を述べている[8]

陳寿は魏志倭人伝を書くにのに当時最新の情報である梯儁張政などの魏使の報告書や魏の公文書だけでなく、先行する『「漢書地理志』や『山海経』など古い文献や『魏略』が参考にした元資料、遼東公孫氏の記録など時代が異なる雑多な資料を組み合わせた為に整合性が取れていない部分や文書の意味が取りにくく、前述の様に読み手に誤解や混乱を招いている。

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版本

現存する数種の版本のうち、宮内庁書陵部蔵の「南宋紹煕年間の刻本」が最善本とされているが、後述のように異論もある。この刻本を「紹煕本」(しょうきぼん)という。

「紹煕本」を魏志倭人伝を含む正史『三国志』の最善本と鑑定したのは正史の原文校訂に尽力した民国時代の学者・張元済である。張は各種の版本を検討した結果、「紹煕本」は非常に優れていると提唱した。清朝の武英殿版正史の校訂を行った考証学者の本文研究とも合致しているというのがその理由である。[9]

この説には安本美典らによる批判がある。安本らは「紹煕本」を最善のテキストだと認めない。安本らは「紹煕本」を民間の粗雑な刻本(坊刻本)とし、しかも刊行年代は慶元年間のものだとしている。安本らはもう一つの善本である南宋紹興本を評価している。[10]

「紹煕本」を元に張元済が刊行したのが百衲本(ひゃくのうぼん)である。ただし、張は「紹煕本」の欠けている三巻[注釈 3]をもう一つの善本である南宋紹興刻本で補っている。[11]

活字本としては現在の中国で諸本を校訂し、句読点を付した「中華書局本」が(初版1959年、北京)、日本でも入手可能である。また、返り点をつけたものとして、講談社学術文庫『倭国伝』(藤堂, 竹田 & 影山 2010)がある。

「倭人伝」は、百衲本の影印版を見れば段落もなく書かれているが、中華書局版と講談社学術文庫版では6段落に分けられている。内容的には、大きく3段落に分けて理解されて[12]いる。

なお、版本・引用文ごとの主な異同を記せば以下のようになる。細かい異同はさらにさらに多いが、論争になっている箇所のみをあげた。引用文については、魏志からの引用であることが明記されているものに限った。

さらに見る 紹煕本, 紹興本 ...
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倭と魏の関係

要約
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卑弥呼と壹與

元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。

卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。

卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が徇葬した。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。再び卑弥呼の宗女(一族、または宗派の女性)である13歳の壹與を王に立て国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。

魏・晋との外交

  • 景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た[注釈 4]。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。
    • 景初3年1月1日に12月8日から病床についていた(『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)魏の皇帝である明帝(曹叡)が死去。斉王が次の皇帝となった。
  • 正始元年(240年)に帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。
  • 正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。
  • 正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない。
  • 正始8年(247年)、新太守の王頎が着任する。女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣したが、この派遣は同年の倭の報告によるものではなく、正始6年の詔によるもの。
  • 女王位についた壹與(正始8年の派遣の時点で既に女王が壹與である可能性がある)は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

また、『日本書紀』の「神功紀」は、晋武帝泰初2年(泰始2年(266年)の誤り)の『晋起居注』(現存しない)に泰初2年10月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したとの記述があるとしている。 現存する『晋書』武帝紀には、泰始2年11月、倭人が朝貢したという記事があり、四夷伝には泰始の初めに倭の女王が通訳を重ねて朝貢したともあるので、この女王は壹與と考えられている。魏に代って成立したの皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。

倭国のその後

3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。

邪馬台国までの行程と倭国の様子

要約
視点

「魏志倭人伝」によると、倭人は山島に依って国邑とし、遼東郡太守公孫康が現ソウル付近に設置した帯方郡を介して朝貢を行い、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。

帯方郡から倭に至る行程について、魏志韓伝(『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝)は、帯方郡の南方のの位置と境界に関して、

韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接。方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。

韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽き、南は倭と接する。方四千里ばかり。韓は三つに区分される。一つ目は馬韓、二つ目は辰韓、三つ目は弁韓という。

と述べ、「韓」は朝鮮半島中部以南の東海岸から西海岸に至る地域を占めるが、南は「倭」と接しているという。

『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)は、三韓の位置関係をより具体的に、

馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。

馬韓は西部に在り、54国を有し、その北は楽浪郡と、南は倭と接する。辰韓は東部に在り、12国を有し、その北は濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国を有し、その南はまた倭と接する。

と述べ、「韓」の西部に馬韓、東部の北部に辰韓、南部に弁辰(辰韓)があるとする。馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも「韓」は南で「倭」と接しているとしている。後漢献帝建安年間に創設された帯方郡は、認識されていないと見える。

邪馬台国までの国と行程

官名等には諸説がある。 魏志倭人伝の原文(中華書局本)の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。「新訂 魏志倭人伝」には当時の倭国各国の推定位置も記されているが、ここでは大部分を省いた。

さらに見る 原文, 日本語訳 ...

その他の国々

女王国の以北にある、狗邪韓国対馬国一支国末盧国伊都国奴国不弥国投馬国邪馬台国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国己百支国伊邪国都支国彌奴国好古都国不呼国姐奴国對蘇国蘇奴国呼邑国華奴蘇奴国鬼国爲吾国鬼奴国邪馬国躬臣国巴利国支惟国烏奴国奴国が記録されている。また、南の狗奴国の男王卑弥弓呼とは不和との記録もある。

奴国は2回記されているが同一の国とする説と別の国とする説がある。

国々の読み方の一例

John R. Bentley は、2008年、Axel Schussler による後漢中国語英語版の音韻体系と、上代日本語等の特徴を勘案して、当時の倭人語の音韻体系の再建を行った。地名を掲出すると、下表のようになる。[13]

さらに見る 記載, 晩期上古中国語 ...


魏志倭人伝の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。「新訂 魏志倭人伝」には当時の倭国各国の推定位置も記されているが、ここでは大部分を省いた。

さらに見る 原文, 日本語訳 ...

帯方郡から女王国(邪馬台国)までの里数

自郡至女王國、萬二千餘里。 帯方郡から女王国までは一万二千里。

倭国の様子

魏志倭人伝の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。訳文は一部修正してあります。

さらに見る 原文, 日本語訳 ...

年表

魏志倭人伝の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。

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倭および魏の使いを年代順に西暦で書くと、238年倭使、240年魏使、243年倭使、247年倭使・魏使・倭使となる。238年12月の文は詔が出された記事で、実際に届けられたのは240年である。同様に245年の難升米に黃幢を賜える記事も、この年に詔が出され、実際に届けられたのは247年であることに注意。またよく誤解されるが、247年に魏使が倭に来たのは245年の詔のせいであり、247年の倭使の訴えがあったためではない(ただし檄などはこれによるものであろう)。

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邪馬台国論争

「魏志倭人伝」に書かれた里数や日数を、不用意に適用すると、日本列島を越えて太平洋上になるため[14]、邪馬台国の位置や道程の比定は決定的な説が見いだされていない。位置の比定について有力なものに「畿内説」と「九州説」がある。道程の比定について有力なものに「連続説」と「放射説」がある(邪馬台国#位置に関する論争を参照)。

「魏志倭人伝」と他の歴史書との関係

『後漢書』倭伝

范曄の『後漢書』「東夷伝」に、倭についての記述がある。 その内容は「魏志倭人伝」と共通点があるが、『後漢書』倭伝には「魏志倭人伝」には年代が特定されていない「桓霊間倭國大亂」等の記事もある。

『隋書』倭国伝

隋書倭国伝』では、『倭國(隋書は倭を“俀”につくる。倭国に訂正)』について、『倭国は百済・新羅の東南にあり。水陸三千里、大海の中において山島に依って居る。』・『その国境は東西五月行、南北三月行にして、各々海に至る。』・『邪靡堆北史には邪摩堆とある。靡は摩の誤りであろう)に都す、則ち「魏志」のいわゆる邪馬台なる者なり。古より(北史では“又”)いう、「楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里にして、会稽の東にあり、儋耳と相近し」と。』[15]とある。『隋書』は『魏略』『魏志』『後漢書』と『宋書』『梁書』とを参考にしながら、総合的に記述されている[16]とのこと。

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脚注

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク

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