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1996年中華民国総統選挙

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1996年中華民国総統選挙
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1996年中華民国総統選挙(1996ねんちゅうかみんこくそうとうせんきょ、: 1996年中華民國總統選舉、正式名称: 第9任總統副總統選舉)は、1996年民国85年)3月23日中華民国台湾)で行われた、総統副総統(第9期)を選出する選挙である。

概要 投票率, 候補者 ...

中華民国史上初の、総統直接選挙である。これまでは総統と副総統が個別に選出されていたが、今回より総統、副総統がペアで候補となり、同時に投票されることに変更された。

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概要

1995年9月5日中央選挙委員会は総統選挙を1996年3月23日に実施することを決定した[1]

与党・中国国民党は現職総統の李登輝を総統候補に、行政院長連戦を副総統候補に擁立した。これに対し司法院長林洋港軍人で元行政院長の郝柏村は反発し離党、新党の支持を受け無所属で立候補している。

また、野党・民主進歩党からは彭明敏謝長廷が、更に元監察院長陳履安と元監察委員の王清峰が無所属で立候補した。

台湾の指導者を台湾の住民により決定する総統直接選挙は、台湾の独立に強く反対する中華人民共和国の反発を招いた。民主化を進める李登輝を「祖国を分断する動き」[2]、台湾独立派の彭明敏を「戦争を選択することになる」[3]と牽制し、3月8日から3月15日にかけて中国人民解放軍によるミサイル演習を台湾近海で行った。この動きに対してアメリカ合衆国第7艦隊空母を派遣するなど、両岸関係は一気に緊張した[4]第三次台湾海峡危機)。

これらの武力威嚇に対し台湾では中国に対する反発が強まり、中国による「国家テロ」への抵抗を強く呼びかけた李登輝は強い指導者として強調され[5]、李登輝への期待票が流れたと分析する傾向もある[6]

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選挙制度

李登輝が進める民主化政策により、1994年中華民国憲法ならびに総統副総統選挙罷免法[7]が改正され、総統・副総統を国民による直接選挙で選出することとなった。

総統候補は副総統候補とペアで出馬し、比較多数の候補ペアを当選者とする。また、今回から総統任期が6年から4年に短縮、連続再選は引き続き3選禁止のままである。

選挙権は20歳以上の自由地区(台湾地区)に6ヶ月以上在住する中華民国国民に与えられる。被選挙権は自由地区に6か月以上在住し、中華民国国民として15年以上経過した者で40歳を超えた時に被選挙人として登録される[7]

ただし中華民国国籍を回復または帰化した者、大陸地区(中華人民共和国)あるいは香港マカオから台湾に移住した国民は被選挙人として登録できない[7]

立候補にあたって政党(直近の国政選挙で5%以上の得票)からの推薦を得るか、複数の政党による推薦(推薦政党の直近国政選挙の得票数合計が5%以上)が必要である。無所属で立候補する場合は、直近の立法院選挙有権者1.5%の署名が必要[7]

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候補者

要約
視点
中国国民党 ' 民主進歩党
総統候補 副総統候補 総統候補 副総統候補
李登輝 連戦 彭明敏 謝長廷
Thumb Thumb Thumb Thumb
総統
党主席
行政院長
党副主席
党主席 立法委員
元台北市議会議員
無所属 無所属
総統候補 副総統候補 総統候補 副総統候補
林洋港 郝柏村 陳履安 王清峰
Thumb Thumb Thumb Thumb
司法院長
行政院副院長
元行政院長
国防部参謀総長
監察院長
元国防部長
元監察委員

中国国民党

与党の中国国民党は、1995年8月に開催された第14回党大会で総統候補の選出方法を議論し、林洋港や郝柏村など党内非主流派が主張する約200万人の党員投票ではなく、主流派が求める1973人の党員代表による投票で行うことを決定した[1]

党員代表による投票の結果、現職の李登輝が総統候補に指名された[8][9]。李は副総統候補に行政院長の連戦を指名した[10][11]。連戦は立候補にあたって行政院長を辞職する意向だったが、後任の行政院長を立法院が承認する可能性が低かったため[12]、李登輝は連戦の辞職を認めなかった[13]

民主進歩党

民主進歩党 総統指名選挙候補
許信良 林義雄 尤清 彭明敏
Thumb Thumb Thumb
桃園県長
元党主席
台湾省議会議員 台北県長 党主席

野党の民主進歩党は、許信良林義雄尤清彭明敏が名乗り上げた。

1995年6月11日に党員投票による第1回目の予備選挙があり、彭明敏が約45%の支持を集め、2位の許信良とともに党員以外の国民も投票できる第2回予備選挙へ進んだ[14]

さらに見る 候補者, 得票数 ...

翌7月15日に2回目の予備選挙が開票され、彭明敏が総統候補に決定した。彭明敏は立法委員の謝長廷を副総統候補に指名した。彭明敏は中国が「台湾を平等に扱う」と約束しない限り、中国との貿易を行うことに反対した。また「一つの中国」政策が二・二八事件に繋がった」と主張したが、台湾はすでに「事実上独立」しているという立場をとり、中国が攻撃しない限り正式な台湾の独立宣言は不要と考えていた。さらには中国大陸との再統一を完全に拒否し、その考えを「自殺」および「自滅」と表現した[15]

無所属

李登輝が進める「台湾本土化」政策に反発する国民党内の反李登輝グループで、外省人(大陸出身者)の元監察院長の陳履安と元監察委員の王清峰は国民党を離党し、無所属で立候補することを表明した。また反李登輝グループの代表格で本省人(台湾出身者)の林洋港と郝柏村(ただし郝は外省人)は李登輝・連戦に対立しつつ党内に残っての出馬を模索したものの、党執行部は野党・新党との関係を問題視し、党除名の処分を出した。結果的に無所属で新党の支持を受けて出馬することを表明した。

選挙結果

要約
視点

全国集計

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県市別投票結果
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郷鎮市区別投票結果
さらに見る 候補者, 所属政党 ...

中国国民党李登輝が、有効投票数の半数を超える5,813,699票(得票率54.00%)を獲得して当選した[16]

県市別

さらに見る 県市, 有権者数 ...

中国国民党李登輝は、全25県市中24県市で他候補をリードする圧勝を果たした。特に、李登輝とその夫人・曽文恵の出身地である台北県三芝郷石門郷では、得票率が80%超を記録した。

無所属の林洋港は、南投県魚池郷出身者であることと南投県長の歴任を背景に地元県民の支持を集め、唯一南投県で李登輝を上回る得票を獲得、特に魚池郷では得票率が70%超に達した。

民主進歩党彭明敏はどの県市・郷鎮市区でも他候補をリードすることができなかったが、民進党の地盤である南部嘉義市では得票率が3分の1を超えた。その他、宜蘭県高雄市屏東県で25%以上、それ以外の県市でも金門県連江県を除いて得票率10%以上を獲得し2位に浮上した。

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参考文献

  • 中央選挙委員会『中華民国選挙史』1987年、中央選挙委員会印行。

脚注

関連項目

外部リンク

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