トップQs
タイムライン
チャット
視点

50度線

樺太に存在した日本とロシア帝国(ソビエト連邦)の国境線 ウィキペディアから

50度線
Remove ads

50度線(ごじゅうどせん)とは、北緯50度を通る緯線。本稿では特に、日露戦争後の1905年から1945年までの40年間の間、北緯50度線上にあって樺太を南北に分けていた日露(日ソ)の国境線について記述する。

Thumb
北緯50度線の国境を警備する警察官
Thumb
樺太の50度線

太平洋戦争大東亜戦争)末期から終戦直後にかけて、南樺太に侵攻したソビエト連邦が樺太(サハリン)全島を占領実効支配した後、サンフランシスコ講和条約日本が南樺太を放棄したことにより、日露両国の国境としては消滅した。ソ連が崩壊して以降は、ソ連を継承するロシア連邦が引き続き樺太全島を実効支配している。

日本政府が、北緯50度線をロシア領(北緯50度以北)と帰属未定地(北緯50度以南)の境界とみなしていることから、日本国内で発行される地図も北緯50度に境界線が引かれ、日本ともロシアとも異なる色で色分けされている[1]。現在の日本政府は樺太南部の領有権を主張しているわけではなく、ロシアの施政に異議を唱える立場にもないと説明しており[2]、樺太南部に在ユジノサハリンスク日本国総領事館も設置している一方、「ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません」[3]とし、ロシアによる統治を正式には承認していない。

Remove ads

位置情報

  • 旧日露国境線東端(オホーツク海沿岸):北緯50度0分0秒 東経143度59分24秒
  • 旧日露国境線西端(間宮海峡面):北緯50度0分0秒 東経142度9分16.25秒

国境標石

  • 日露戦争後の1905年ポーツマス条約で樺太の北緯50度以南を日本領有することとなり、翌1906年から1908年に掛けて、参謀本部陸地測量部の陸地測量師矢島守一を日本側の測量責任者とし、天文測量による日露両国の国境画定作業が行なわれ、東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡までの、おおよそ130kmの間に4基の天測境界標、17ヶ所に平均6kmごとに中間標石、19ヶ所に木標が建てられた。
  • 標石の大きさは高さ64、正面幅30~50、側面幅18~30cm程度で将棋の駒のような形になっている。標石の一面には菊花紋章(菊の紋章)と「大日本帝国」、「境界」の文字、他面にはロシア帝国双頭鷲紋章とキリル文字でロシア(РОССІЯ[4])、1906、グラニーツァ(ГРАНИЦА 国境)の文字、側面には「天第一~四號 明治三十九年」、反対側面もアストロ(АСТР 天測)の刻字がある。

なお標石の頂部にある「模造」の文字は、東京都新宿区明治神宮外苑絵画館前に保存されているレプリカ[5]のみで、樺太に設置されていた標石には「模造」の文字はない。

Remove ads

国境標石の所在地と現状

天測境界標
中間標石

中間標石のレプリカ1基が、小樽市水天宮境内に設置されている[7]

国境紛争

国境は北緯50度線と人為的なものであったが、国境紛争も起きていた。国境に関する観念は島国の日本側よりも大陸国であるロシア(ソ連)側の方が敏感であった。

脚注

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads