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喜連川茂氏

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喜連川 茂氏(きつれがわ しげうじ)は、江戸時代中期の大名下野喜連川藩の第5代藩主。

概要 凡例喜連川茂氏, 時代 ...
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生涯

元禄13年(1700年)12月2日(もしくは元禄15年(1702年))、第4代藩主・喜連川氏春の長男として生まれる。享保2年(1717年)5月15日、徳川吉宗御目見し、享保6年(1721年)に父が死去したため跡を継いだ。弓術に秀で、一寸の強弓を扱う事で知られた。宝暦7年(1757年)12月25日、次男の氏連に家督を譲って隠居し、明和4年(1767年)5月15日に死去した。

民政に尽力し、特に治安の安定によく努めたという。そのため、茂氏の治世のもとで喜連川藩は一度も盗賊が現れず、夜も戸締りの必要なしとまで謳われ、茂氏自身も「民政安定の名君」と称された。しかし晩年は子の氏連が先立って若死にするなど、不幸でもあったという。

系譜

父母

正室、継室

子女

養女

  • 玉淵尼 - 鎌倉東慶寺22世。1728年(享保13年)に高辻前中納言の娘が、東慶寺の住持になることを前提に入山したが、前例(喜連川尊信の娘の永山尼が21世)に倣い、一旦喜連川家の養女となってのち入山した。

脚注

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