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今川義泰

日本の江戸時代中期~後期の武士。江戸幕府旗本今川範主三男で、高家旗本今川氏7代当主(駿河今川氏19代当主)。従五位下侍従・丹後守 ウィキペディアから

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今川 義泰(いまがわ よしやす)は、江戸時代中期の高家旗本今川家では氏睦以来約70年ぶりに高家職(奥高家)に就いた。今川家19代当主[注釈 2]

概要 凡例今川義泰, 時代 ...

生涯

今川範主の三男として生まれ、はじめ西尾を称する。兄今川範彦の養子となり、寛延2年(1749年)10月8日、19歳で家督を相続する。同年11月28日、将軍徳川家重御目見する。

宝暦12年(1762年)8月15日、32歳で高家職に就き、従五位下・侍従に叙任、丹後守を称する。明和2年(1765年)には久能山東照宮の遷宮に際し同地に赴いている。

安永4年(1775年)7月9日、病気のため高家職を辞す。天明4年(1784年)閏1月18日死去、54歳。菩提寺である長延寺に葬られた。

系譜

寛政重修諸家譜』によれば、1男がある。

父母
妻妾
  • 正室:喜連川茂氏喜連川藩主)の三女。
    宝暦2年(1752年)7月に婚姻したが、のちに離婚、井上正延(4000石)の継室になっている。
  • 継室:某氏
    今川義彰の生母。某氏とのみあるため側室と思われるが、観泉寺過去帳に「先丹後守(義泰)奥方」とあるため、継室となったかもしれない。享和4年3月17日(1804年4月26日)没[注釈 3]。法名は盛寿院殿禎室智祥大禅定尼[2]
子女

参考文献

  • 『寛政重修諸家譜』巻第九十四
  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)

脚注

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