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垣内東皐
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垣内 東皐(かきうち とうこう)は江戸時代中期の儒医。紀伊国栖原村出身。伊藤仁斎門下。豊前中津藩医。
生涯
延宝8年(1680年)[1]紀伊国栖原垣内本家第5代垣内重信の次男として生まれた[2]。幼名は希八[2]。幼くして読書を好み[1]、父に倣って伊藤仁斎・東涯に入門して[2]10年余り師事し、同時に医術も学んだ[1]。修業後江戸に出て名声を広め[1]、享保元年(1716年)9月岡島冠山『唐話纂要』に「白樫仲凱」の名で跋を寄せ[3]、享保2年(1717年)春紀州藩主に拝謁した[1]。
享保9年(1724年)秋[1]豊前中津藩主奥平昌春侍医となり、世継ぎの侍読を兼ね、200石10人扶持を賜り[2]、和歌の相手も務めた[4]。享保17年(1732年)6月病気のため退職し、海路帰郷しようとしたが[5]、出発して2日後に世継ぎが危篤になり、急遽哨戒船で呼び戻された[6]。殿上で杖の使用を許され、数度の投薬により嫡子は全快したが、自身の病気は悪化し、8月14日中津の旅館で死去し[5]、同所安全寺に葬られた[4]。妻妙真とまだ幼い養子松渓は、喪が明けた後紀州に戻り、遺言を伝えた[7]。
享保19年(1734年)6月祇園南海が追悼詩を詠んでいる[8]。安政6年(1859年)3月孫鷹子により故郷施無畏寺に石田冷雲撰・書「東皐垣内先生碑」が建てられた[9]。
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著書
親族
脚注
参考文献
外部リンク
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