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塚本真彦
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塚本 真彦(つかもと まひこ、天保3年(1832年ごろ)- 明治元年(1868年)閏4月7日)は、幕末の小栗忠順の家臣。諱は勉(つとむ)。江戸出身で、のちに主君に従って上野国権田村へ移住。万延元年遣米使節に随行した才人で、明治元年に小栗又一とともに高崎で斬首された。
生涯
塚本真彦は、もと林田藩主建部政醇の小姓出身である。嘉永2年(1849年)、小栗忠順が政醇の娘・道子を娶った際、建部家の小姓であった真彦は小栗に兼ねてより目をつけられており、夫人付の侍として小栗家に迎え入れられた[1]。 聡明で語学に堪能であり、小栗の信頼を受けて側近に仕えた。安政5年(1858年)1月5日には、主君小栗より初剃の祝儀として金二朱を拝領している[2]。
万延元年遣米使節には、小栗忠順の随員として渡米し、英語や数学にも通じたその才能を発揮した[3]。アメリカ滞在中は財政・経済に関する原書を購入し、帰国後は主君の幕政改革等に助力したという[4]。
また小栗は村の名主佐藤藤七に命じ、村内の優秀な若者を江戸屋敷に勤めさせ、夜には真彦が学問を教えていたという。英語や数学、一般教養を教え、来る新時代に備える啓蒙教育を行っていた[5]。
慶応年間、真彦も小栗に従い上野国権田村に移住した。また権田滞在中、暴徒襲撃事件(慶応4年3月)の際には手に負傷しながらも奮戦し、暴徒を撃退したと伝えられる[4]。
慶応4年(1868年)閏4月4日、戊辰戦争のさなか小栗忠順が捕縛されると、塚本もともに拘束された。小栗らが惨殺された翌閏4月7日、高崎城内において小栗の養子小栗又一とともに斬首された。享年37[1]。 墓所は群馬県高崎市下斉田町にあり、法号は「賢宗良哲居士」。また東善寺にも供養碑が残る。
東善寺には、塚本が使用したと伝わる馬具(鞍)が残されており、夫人道子の嫁入り時に建部家から小栗家へ移った品とされる[1]。
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一家の悲劇
主君の捕縛後、塚本家族は報復を恐れて脱出した。 母・ミツと長女チカは逃避中に行き場を失い、地蔵峠付近の山中で自害した(閏4月8日)。一方、夫人は長男のみを連れて逃れ、二人の娘を相間川に沈めたと伝えられる。のちに村人によって相間川畔に観音像が建立され、供養が行われている。
脚注
参考文献
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