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岡田刀水士
日本の詩人 ウィキペディアから
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岡田 刀水士(おかだ とみし[1][2][3]、1902年〈明治35年〉11月6日[2] - 1970年〈昭和45年〉9月30日[2])は、大正・昭和時代に活躍した日本の詩人、教員。
生涯
1902年(明治35年)群馬県前橋市大字才川(現・若宮町)に生まれる[1][2]。群馬郡久留馬小高等科を経て[1]、1925年(大正14年)群馬師範学校本科第一部(現・群馬大学教育学部)を卒業[2]。
倉賀野尋常高等小学校を振り出しに、高崎北尋常高等小学校、高崎中央尋常高等小学校で勤務[2]。1930年(昭和5年)ごろからは自由教育の実践に取り組んだ[1][2]。1936年(昭和11年)退職して上京、東京府八王子第二小学校に代用教員として勤めるが間もなく退職し、1937年(昭和12年)より高崎市片岡尋常高等小学校に勤務[2]。高崎北国民学校に移った後1943年(昭和18年)退職、同年鉄道官補となり高崎鉄道青年学校の教官となった[2]。
1948年(昭和23年)高崎市立塚沢中学校助教諭となり、翌年教諭の資格を取得[2]。塚沢中に15年間勤務した後1963年(昭和38年)に退職した[2]。
師範学校在学中から詩作を始め、萩原朔太郎に師事[1][2][3]。1922年(大正11年)朔太郎の紹介により多田不二が編集する『帆船』同人となり[2]、さらに1925年(大正14年)朔太郎の推薦で「詩話会」の会員となった[1][2]。また個人詩誌『興隆期』を発行し、草野心平主宰『銅鑼』同人となる[1][2]。1932年(昭和7年)群馬詩人クラブが設立されるとその同人となり活動[2]。
戦後は詩誌『青猫』を主宰[1][2][3]。『歴程』同人、日本現代詩会員として活動[1]。群馬県文学賞詩部門選考委員[1][3]や、上毛新聞「詩壇」選者も務める[1][3]。晩年は詩誌『軌道』を主宰した[1]。1970年(昭和45年)、高橋元吉文化賞を受賞[1][3]。
高崎市立中央小学校、中川小学校、中尾中学校、城南小学校などの校歌の作詞もしている[2]。
1970年(昭和45年)、心不全により死去[1]。1976年(昭和51年)に高崎公園に「桃李の路」詩碑が建立されている[1][3]。
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詩集
- 『桃李の路』1950年
- 『谷間』1950年
- 『純情の鏡』1952年
- 『幻影哀歌』1968年
- 『灰白の螢』1970年
- 『憂愁の蘭』1976年、遺稿詩集
出典
関連項目
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