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青年学校

1935年から1948年までの日本に存在した学校種別 ウィキペディアから

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青年学校(せいねんがっこう)とは、1935年昭和10年)に公布された青年学校令に基づき設置された、かつての日本における教育機関である。太平洋戦争終戦後の学校教育法が制定されるまで存在した。

概要

青年学校は当時の義務教育期間である尋常小学校(のちに国民学校初等科)6年を卒業した後に、中等教育学校中学校高等女学校実業学校)に進学をせずに勤労に従事する青少年に対して社会教育を行っていた。青年学校が設置される前は、実業補習学校青年訓練所がこの役割を担っていた。この2つの教育機関は、教育の対象となる年齢層の一部・教育内容・施設等に関して共通する部分が多く、2つの独立した教育機関を併存させることは地方公共団体の財政負担を重くするなどの問題点があった。これを解消するため、実業補習学校と青年訓練所を統合して設置されたのが青年学校である。

さらに見る 開始時(修了時)の年齢, 青年学校の学年 ...
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歴史

前史
  • 実業補習学校
実業補習学校#歴史も参照。
義務教育の尋常小学校6年修了後、高等小学校や中等教育学校に進学せず、勤労に従事する青少年の教育機関として設けられていた実業補習学校は、特に農村部における農業補習学校の隆盛をもって社会教育の一環としての需要を満たしていた。
これは、実業補習学校の教育目的が他の実業学校(工業学校や商業学校・農業学校など)とは性格を異にしており、既に職業に従事している青少年に対する実務教育機関としての役割を担っていたことから、多くの実業補習学校は小学校に付置され、また、明治末期から大正年間に掛けて行われた青年団の振興政策とリンクし、これら勤労青少年の社会教育機関として定着して行ったことによるものと思われる。特に農村部においては、現代と違い機械化も進んでおらず、人手の欠かせない農繁期などを踏まえ、中等教育機関へ進学することができなかった事情とも相まって発展したものと見られる。
  • 青年訓練所
1926年(大正15年)、16歳以上の勤労青年男子を対象とし、労働の合間の余暇に修身及公民科、普通学科、職業科、教練科を教える教育機関として青年訓練所が創設された(「青年訓練所令」)。略称は「青訓(せいくん)」。一般に青年訓練所は、16歳以上の男子に対して4年間の課程で軍事教練を施す教育機関とされ、訓練修了者は陸軍歩兵科に徴集された場合に限られはするが、兵営において所定の検定に合格することで在営年限半年短縮という特典をうけることができた。ただし創設当初は反対運動も根強く、有名なものとしては長野県下伊那地方の連合青年会による青年訓練所設置反対運動がある。
青年学校の発足から廃止まで
青年訓練所と実業補習学校は、教育を受ける年齢層が一部重なり(実業補習学校後期課程が16歳以上に及ぶ場合)、一部の生徒は「二重学籍」状態であったことなどから、これらの教育機関を統合・拡充されることとなった。
  • 1935年(昭和10年)4月1日
    • 「青年学校令」(昭和10年勅令第41号)が公布・施行され、青年学校が設置される。
      • 文部省陸軍省による協力体制の下で、実業補習学校としての職能実務教育と青年訓練所としての軍事教練の役割を青年学校に持たせた。
        • 目的 - 「男女青年に対し、その心を鍛錬し、徳性を涵養すると同時に職業および実際生活に必要な知識・技能を授け国民としての資質を向上させる」
        • 設置主体
        • 設置・廃止の認可 - 道府県立の青年学校は文部大臣、その他の青年学校は地方長官が行う。
        • 授業料 - 原則として無償
        • 設置学科
          • 普通科 - 入学資格を尋常小学校卒業者(12歳以上)、修業年限を男女ともに2年とする。
          • 本科 - 入学資格を普通科修了者または高等小学校卒業者(14歳以上)、修業年限を男子5年・女子3年とする(1年の短縮も可能)。
          • 研究科 - 入学資格を本科修了者、修業年限を1年以内とする。
          • 専修科 - 入学資格を本科修了者とする(修業年限の規程なし)
    • 青年学校教員養成所令」(昭和10年勅令第47号)・青年学校学校教員養成所規程(昭和10年文部省令第6号)の公布・施行により、青年学校教員養成所を設置(実業補習学校教員養成所等を改組・改称)
  • 1939年(昭和14年)4月26日 - 昭和14年勅令第254号により、青年学校令が改正される。
    • この年の普通科入学生(男子のみ)から普通科・本科の計7年が義務教育期間に加わる(尋常小学校6年と合わせると計13年間)。
    • 改正前に入学した男子生徒に関しては、義務教育は適用されない。
    • この年の入学生が本科5年生になる1945年度(昭和20年度)に青年学校7年間の義務教育が完成する予定であった。
  • 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令の施行
    • 青年学校令の条文の中にある尋常小学校を国民学校初等科に、高等小学校を国民学校高等科に改める[1]
  • 1944年(昭和19年)4月1日 - 師範教育令一部改正(昭和19年勅令第81号)により、官立(国立)青年師範学校が設置される(青年学校教員養成所を改組・改称)。
  • 1945年(昭和20年)
    • 3月 - 決戦教育措置要綱[2] が閣議決定され、昭和20年度(同年4月から翌3月末まで)授業が停止されることとなる。
    • 5月22日 - 戦時教育令が公布され、授業を無期限で停止することが法制化される。
    • 8月15日 - 終戦
    • 8月21日 - 文部省により戦時教育令の廃止が決定され、同年9月から授業が再開されることとなる。
    • 9月12日 - 文部省により戦時教育を平時教育へ転換させることについての緊急事項が指示される。
    • 10月6日 - 戦時教育令が廃止。
  • 1947年(昭和22年)4月1日
    • 学校教育法の施行に伴い、青年学校令が廃止。
    • 学制改革(六・三制実施、新制中学校の発足)により、青年学校の普通科は廃止の上、その施設・教員・生徒は新制中学校に移管される。
  • 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施、新制高等学校の発足)
    • 青年学校の本科は廃止の上、大半が新制高等学校の定時制分校として新制中学校に併置され当分の間職業教育活動を継続した。
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教育内容

学科によって次の科目を教授することが青年学校令で規定されていた。

  • 普通科
    • 男子 - 修身および公民科・普通学科・職業科・体操科
    • 女子 - 修身および公民科・普通学科・職業科・家事および裁縫科・体操科
  • 本科
    • 男子 - 修身および公民科・普通学科・職業科・教練科
    • 女子 - 修身および公民科・普通学科・職業科・家事および裁縫科・体操科
  • 研究科 - 本科の科目に関連して必要に応じて定める。ただし修身および公民科は必須科目とする。

太平洋戦争開戦後は「戦時動員体制」のさなか,公立・私立を問わず青年学校の多くは軍需生産力の増強に向け、学科標準時数の引き下げや、職業科科目の実習(と言う名の勤労動員)への振り替えなどが勧められ、制度上は教育機関であったが、その実は戦時下の動員体制に組み込まれ、教育内容そのものの空洞化が進行した。

設置数

1942年(昭和17年)時点において、公立は16011校(うち道府県立は14校、市立は2223校、町村立は13774校)、私立は2925校設置されていた[3]

おもな青年学校

要約
視点

官立(国立)

1944年(昭和19年)に官立青年師範学校が設置されたことにより、その附属青年学校として設置された。公立の青年学校が附属青年学校に代用されることが多かった。

公立

小学校(国民学校)に併置されるものが多かった。

北海道

東北地方

関東地方

中部地方

近畿地方

中国地方

四国地方

九州・沖縄地方

外地

  • 関東州関東青年学校

私立

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脚注

関連項目

外部リンク

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