トップQs
タイムライン
チャット
視点

氷上志計志麻呂

日本の奈良時代の貴族 ウィキペディアから

Remove ads

氷上 志計志麻呂(ひがみ の しけしまろ)は、奈良時代貴族天武天皇の曾孫。中納言氷上塩焼の子。

概要 凡例氷上志計志麻呂, 時代 ...

経歴

父・塩焼は天平宝字2年(758年)に氷上真人姓を与えられ臣籍降下しているが[1]、志計志麻呂の誕生がその以前か以後かは明らかでない。天平宝字8年(764年藤原仲麻呂の乱にて、塩焼は藤原仲麻呂によって天皇に擁立されようとして殺害された際[2]不破内親王称徳天皇と異母姉妹であったことから、不破内親王・志計志麻呂母子は連坐を免れている[3]

神護景雲3年(769年)不破内親王は県犬養姉女忍坂女王石田女王らと共に、称徳天皇を呪詛してその命を縮め、志計志麻呂を皇位につけようとする巫蠱の術を行ったとして処罰された。その際に発せられた宣命によれば、天皇の髪の毛を盗んで佐保川の髑髏に入れ、宮中に持参してまじないを行うこと3度に及んだという。不破は内親王の身位と皇親の身分を奪われ「厨真人厨女」と賜姓・改名のうえで、平城京内に居住することを禁止された。志計志麻呂は土佐国に配流された。共犯の3人の女性もそれぞれ遠流に処せられた。[3][4]

宝亀2年(771年)になって、この呪詛事件発覚のきっかけとなった丹比乙女の訴えが誣告であったとされ、県犬養姉女・忍坂女王が赦免された[5]。なお、不破の内親王復帰は翌宝亀3年(772年)12月にずれこんでいる[6]。しかし、志計志麻呂については赦免記事は見当たらず、その後の消息は明らかでない[7]

なお、林陸朗は、古語に穢れる、荒れるなどの意の「しけし」という語があることから、母の不破が卑しい名前に改名させられたのと同様に、志計志麻呂の弟とされる氷上川継が改名させられたものであって、志計志麻呂と川継は同一人物であるとの説を唱えている[7]。志計志麻呂と川継の事績は時間的に重ならず、志計志麻呂は神護景雲3年の配流を最後に見えなくなるのに対し、川継の初見はその10年後の宝亀10年(779年)である[7]。両者が同一人物であるとすれば、志計志麻呂=川継は配流記事に改名後の名前で記録され、母の不破と同時期に赦免されて元の川継の名に復したと考えられる[7]

高知県須崎市の野見には志計志麻呂の配流地であるとの伝承があり、同地の親王宮とよばれる祠には志計志麻呂の供養塔と伝えられるものがある[8]

Remove ads

系譜

脚注

参考文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads