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田中康政

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田中 康政(たなか やすまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将筑後国初代国主田中吉政の子[1]

概要 凡例田中 康政, 時代 ...

生涯

田中吉政の子として誕生した。父・吉政が関ヶ原の戦いでの功績により筑後柳河藩に封じられると、慶長6年(1601年)9月に筑紫広門が築いた福島城(現在の八女公園)の大規模な改修・拡張を行い、3万石を与えられた康政が城主として入った[2]。慶長14年(1609年)2月に吉政が死去すると、口訥の病(吃音症)があり[2][3]病身で虚弱であった[3]康政に代わって、世嗣となっていた弟の忠政が家督を継いだ。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に際して遅参した忠政について康政は、忠政が豊臣方に内通していた疑いがあると江戸幕府に訴え出た[2][4]。急ぎ江戸に出府した忠政は藩邸で謹慎し、重臣・田中采女が幕府の要職者に弁明して事なきを得たが、幕府は訴え出た康政を咎めず、分知して別家を立てさせるという裁定を下した[4]元和3年(1617年)、忠政からの願い出という形で、生葉郡竹野郡2郡および山本郡半郡で3万石を分知された[4]

元和6年(1620年)に忠政が死去して田中家が改易されると、康政も所領を失った。近江国で1万石を賜ったが辞したとされ、これは弟を誣告したことを恥じたためという[2]

その後、洛外に隠棲し、間もなく死去した[2]

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脚注

参考文献

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