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鳴門義民

明治時代の英学者、農政官僚 ウィキペディアから

鳴門義民
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鳴門 義民(なると よしたみ)は明治時代英学者、農政官僚。阿波国美馬郡出身。江戸大木忠益蘭学横浜で外国人に英語を学び、神奈川奉行所に勤務した。東京に英学塾を開いた後、農業行政に転じ、全国でメイガの駆除法を指導した。晩年芝区会議員。

概要 人物情報, 別名 ...
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生涯

要約
視点

横浜への遊学

天保4年(1833年)または天保6年(1835年)7月15日[1]阿波国美馬郡重清村東原(現徳島県美馬市美馬町中東原)に佐々治藤太の次男として生まれた[2]。幼名は次郎、後に次郎吉[2]

佐々家口伝によれば[2]、厳格な継父の教育に耐えかねて家出を決意し、草鞋製作により800文を蓄え、12歳の時吉野川岸に着物と下駄を置いて投身自殺を偽装し、家出を決行した。徳島からは金刀比羅宮参詣者に変装して無賃で大坂に渡り、呉服屋・大工・武家に奉公して旅費を貯めた後、横浜に上り、中浜万次郎出入りの米屋に住み込みで働き、毎日単語カードを譲り受けて英語を学んだという[3]

安政元年(1854年)頃浜松町大木忠益に入門し、大鳥圭介加藤弘之子安峻橋本綱三郎宮内広中村正直等と蘭学を学んだ[2]

万延元年(1860年)横浜に出て、サミュエル・ロビンス・ブラウンに英文法、ジェームス・カーティス・ヘボンに世界地理、ジェームズ・バラに初級英語、デイヴィッド・トンプソンに数学を学んだ[4]文久2年(1862年)3月神奈川奉行所に召し抱えられ、神奈川表英学社で英学を学んだ[4]慶応2年(1866年)12月通弁・翻訳御用となり、徳島藩石川権五郎等に英学を教え、イギリス士官との航海術の問答を通訳した[4]

東京での英学塾経営

明治維新後、東京府尾張町二丁目(現中央区銀座六丁目)に阿波屋を開業し[5]、外国雑貨を商った[6]苗字制定の際に「鳴門」をとした。

明治2年(1869年)8月1日露月町(現港区東新橋二丁目)に英学・通弁教諭所を開業し、明治3年(1870年)8月17日『易経繋辞上伝「其利断金」「其臭如蘭」に依り金蘭社と号した[7]。家塾は成功して100名以上の生徒を抱え[8]、明治4年(1871年)10月には薬研堀町(現中央区東日本橋二丁目)島村元琳宅に分塾鳴門社(鳴門塾)を開き、1876年(明治9年)頃鳴門義民英学所と改称[9]、1880年(明治13年)1月17日簿記学科を開講した[10]

農政への転身

明治4年(1871年)頃大蔵省勧農寮に出仕し、明治5年(1872年)頃塾を校主代理・塾長に任せて大阪に移り、農書の翻訳・編纂に当たった[11]

1875年(明治8年)5月島邨泰開農義会社員となり、『開農雑報』に活発に寄稿したほか[12]波東農社合併社員として茨城県鹿島郡の開墾事業に出資した[13]。1881年(明治14年)大日本農会創立時に常置議員・農芸委員(虫学科)となった[14]

1877年(明治10年)5月から10月まで勧農局の命で青森県津軽郡に出張し、藁の焼却、誘蛾灯による駆除、虫の付いた稲茎の焼却、肥料への塩分添加を指導し、岩館村の試験田で薬剤試験を行った[15]。これが政府による虫害調査の初めとされる[16]

同年福岡県益田素平等からも螟害の問い合わせがあり、1878年(明治11年)赴任し、青森県のものが二化性であるのに対し、福岡県のものは三化性で別種と判明[17](後にニカメイチュウサンカメイチュウ英語版と命名)[18]、5月長崎県[19]、11月熊本県で青森県と同様の駆除法を通達した[20]

1880年(明治13年)駒場農学校植医科教師となり[6]、農書の出版や全国農談会での講演を行い、短冊苗代を奨励した[21]。1881年(明治14年)6月栃木県、1882年(明治15年)5月東京府下板橋宿、1883年(明治16年)9月下総、10月神奈川県でも虫害調査・駆除法指導を行い、『農事月報』で逐次報告した[22]

晩年

明治20年代初めには非職となり[21]、1889年(明治22年)11月から1892年(明治25年)11月まで第1期芝区会議員を務めた[23]。1889年(明治22年)本芝四丁目海岸に鉱泉が発見され、土地借用を出願したが、他の出願者と係争になり、後に木村荘平の個人事業として開発された[24]

明治末期深川区、更に渋谷町に転居した[25]。1913年(大正2年)11月8日死去し、青山霊園に葬られた[25]

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経歴

著書

生徒

家族

  • 父:佐々治藤太 - 槍術指南[1]
  • 母:熊 - 享和3年(1803年)1月15日生。1884年(明治17年)上京して同居[25]
  • 兄:佐々寿京 - 文政9年(1826年)2月29日生。学区世話方、伍長、村会議員[25]関口新心流柔術免許皆伝[2]。1911年(明治44年)8月13日没[25]
  • 甥:鳴門半三 - 万延元年(1860年)12月21日生。寿京次男[30]。鳴門塾生[31]。欧文書院で英語を教えた後、神戸税関署長[30]
  • 長男:鳴門義次 - 海軍軍医少佐1933年没。享年70[21]
  • 長男妻:せん
  • 娘:美須[21]
  • 娘:慶[21]
  • 娘:英[21]
  • 孫:正夫 義次の子
  • 子孫:川瀬金次郎[32]

脚注

参考文献

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