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加藤弘之

日本の政治学者・官僚 ウィキペディアから

加藤弘之
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加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日天保7年6月23日〉- 1916年大正5年〉2月9日)は、明治時代日本政治学者教育者。旧幕臣出石藩士位階勲等正二位勲一等爵位男爵学位文学博士法学博士。旧名・誠之(あきゆき)、通称・弘蔵(こうぞう)。

概要 人物情報, 別名 ...
概要 枢密顧問官, 在任期間 ...

外様大名出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館致遠館グイド・フルベッキの門弟として学ぶ[3][4]。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞元老院議官勅選貴族院議員などを歴任、獨逸学協会学校の第3代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学第2代総長を務めた。大日本教育会名誉会員。その後男爵、初代帝国学士院院長枢密顧問官獨逸学協会会員。

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来歴

  • 1836年(天保7年) - 但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市)の藩士として、同藩家老をも務めた加藤家の加藤正照と、妻・錫子の長男として生まれる。幼名は土代士(とよし)。
  • 1852年嘉永5年) - 江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。
  • 1854年安政元年) - 大木仲益(坪井為春)に入門して蘭学を学ぶ。
  • 1860年万延元年) - 蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。
  • 1861年文久元年) - 『鄰草(となりぐさ)』を著す。外敵を防ぐためには武器だけでは駄目で人和が必要であると喝破し、立憲思想(議会による上下分権)の優越性を論じ、同僚の西周津田真道に大きな影響を与える(但し印刷・公表されたのは1889年)。
  • 1864年元治元年) - 旗本となり開成所教授職並に任ぜられる[5]
  • 1868年慶応4年) - 1月、目付に任ぜられる。新暦12月12日、政体律令取調御用掛に就任。この年、『立憲政体略』刊行。
  • 1869年明治2年) - 新政府へ出仕、外務大丞などに任じられる。この年『非人穢多御廃止之儀』を公議所に提出。
  • 1870年(明治3年) - 洋書進講担当の侍講に任ぜられる。旧暦7月、『真政大意』を著し天賦人権論を紹介。
  • 1872年(明治5年) - ヨハン・カスパル・ブルンチュリ英語版の『国家学』を進講(後に『国法汎論』として翻訳出版)。
  • 1873年(明治6年) - 明六社に参加。民撰議院設立論争では時期尚早論を唱えた。
  • 1874年(明治7年) - 『国体新論』を発表。『日新真事誌』2月3日に、民撰議院設立尚早論を掲載。
  • 1877年(明治10年) - 2月1日、東京開成学校綜理に就任。4月13日、旧東京大学法文理三学部綜理に就任。
  • 1881年(明治14年) - 7月、職制改革により、旧東京大学初代綜理に(1887年1月迄)。11月22日、加藤の絶版届により『真政大意』『国体新論』の販売禁止(内務省達)。
  • 1882年(明治15年) - 10月、『人権新説』出版、社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確にし、民権思想家との論争を引き起こす。一般的には、この『人権新説』を境に、加藤は自らの思想、態度を変化させたと考えられている。
  • 1886年(明治19年) - 1月11日、元老院議官
  • 1888年(明治21年) - 日本初の文学博士の一人として学位取得。
  • 1890年(明治23年) - 5月、旧東京大学を改制した帝国大学の第2代総長となる。9月29日、貴族院議員に勅任[6](1906年12月15日迄)。
  • 1893年(明治26年) - 6月、帝国大学総長を辞任。7月、錦鶏間祗候。11月29日、『強者の権利の競争』(ドイツ語にも翻訳され5月、 Der Kampf ums Recht des Stärkeren und seine Entwicklung として出版)では、強権的な国家主義を展開した。
  • 1895年(明治28年) - 7月、宮中顧問官
  • 1898年(明治31年) - 高等教育会議議長。
  • 1900年(明治33年) - 5月、男爵に叙せられ華族に列する[7]
  • 1901年(明治33年) - 3月、東京帝国大学名誉教授の称号を授与される[8]
  • 1906年(明治39年) - 7月、初代帝国学士院長。12月10日、枢密顧問官
  • 1907年(明治40年) - 8月28日、『吾国体と基督教』、キリスト教を攻撃し、国体とキリスト教をめぐって論争がおこる。
  • 1916年大正5年):79歳で死去。遺言により、無宗教で葬儀が行われた。墓所は雑司ヶ谷霊園
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思想

1861年(文久元年)に執筆された『鄰艸』はわが国で初めて立憲政体(上下分権の政体)の透徹した理解を示し、その強みと必要性を説得的に論じた画期的な著作であり、公表されなかったとは言え、同僚の西周や津田真道に読まれ、大きな影響を与えた。(上下分権とは、「君主万民の上に在りて之を統御すると雖も、確固たる大律(憲法)を設け又公会(議会)と云える者を置きて王権を殺ぐ者を云ふ」) [9]

また、1868年(明治元年)には『立憲政体略』を著わす。これらは人和がなければ兵器があっても外敵を防げず、人和のためには立憲政体(上下同治、君民同治)が必要であるという論旨である。明治初年における政府内で、すでに将来の立憲政体樹立のコンセンサスが形成されていたことは、加藤の多大な貢献による。1872年(明治5年)宮島誠一郎の『立国憲議』、同年左院が正院に提出した『下議院を設くるの議』や1873年、大久保利通の『立憲政体に関する意見書』などは基本的に加藤の論に基づいている。[10]

加藤の思想は終生現実的だった。

維新後は天賦人権説に拠った啓蒙思想の傾向が強く、1873年(明治6年)には福澤諭吉森有礼西周らとともに明六社を結成、啓蒙活動を展開した。しかし後には社会進化論の立場から民権思想を批判するようになり、この180度の転向が終生攻撃の的となる。

加藤は1879年(明治12年)11月には、愛宕下青松寺での講演「天賦人権説ナキノ説并善悪ノ別天然ニアラザルノ説」で、進化論の立場から天賦人権説を否定していたが、1881年(明治14年)に海江田信義がこれを批判すると、この問題は政府部内にも波及した。加藤は文部卿福岡孝弟に促され、改めて天賦人権論の立場から書かれた旧著『真政大意』と『国体新論』の絶版を宣言するという騒動になっている。

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家族・親族

生家

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出石に現存する生家

兵庫県豊岡市出石には生家があり、敷地と建物は当時のまま残されているが、屋根や外観は改修されている[14]

栄典

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加藤弘之
位階
勲章等
外国勲章佩用允許
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著作

  • 加藤弘之講論集加藤照麿編、金港堂、1891年11月第一・第二 / 敬業社、1899年4月第三・第四
    • 『加藤弘之講演全集』 加藤照麿ほか編、丸善、1900年12月
  • 「加藤弘之篇」(『明治文学全集 3 明治啓蒙思想集』 大久保利謙編、筑摩書房、1967年1月、ISBN 4480103031
  • 日本の名著 34 西周 加藤弘之』 植手通有責任編集、中央公論社、1972年1月、ISBN 4124003749 / 中央公論社〈中公バックス〉、1984年7月、ISBN 4124004249
  • 『加藤弘之文書』 上田勝美ほか編、同朋舎出版、1990年8月(全3巻)、ISBN 4810408833, 4810408841, 481040885X
  • 加藤弘之日記 : 明治十八年一月〜十二月」(『東京大学史紀要』第10号、東京大学史史料室、1992年3月、CRID 1050289455228233088
著書
訳書
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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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