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戦国時代の武将・熱田神宮の大宮司 ウィキペディアから
千秋 季忠(せんしゅう すえただ)は、戦国時代の武将・熱田神宮の大宮司。織田信長の家臣[6]。尾張国知多郡羽豆崎(はずざき)城主[3]。
天文3年(1534年)[注釈 1]、熱田神宮の大宮司・千秋季光の子として誕生。千秋家は藤原季範の末裔で、長年にわたって尾張を中心に美濃・三河に社領を広げていくうちに武士化し、16世紀頃の前半頃に新興勢力だった織田弾正忠家と結びついた[3]。
父・季光は武士として織田信秀に仕えていたが、天文13年(1544年)9月、加納口の戦いで戦死し[7]、跡を継いだ季光・長男の季直も間もなく夭折したため、弟の季忠が大宮司職と家督を継いだ[6]。
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いに参加。佐々政次と共に鷲津砦・丸根砦を落とした今川義元軍と対峙していたが、織田信長が善照寺砦に到着したのを見て義元本隊に攻撃を仕掛け、政次ともども討ち死にを遂げた[8]。この千秋・佐々の行動は、信長が奇襲を成功させるために命じた陽動作戦との説と[9]、藤本正行の、戦国時代にはよくあったという、単なる抜け駆けと解釈する説がある[10]。
季忠が戦死したとき、子の季信は母の胎内にあり、大宮司職は叔父の千秋季重が中継ぎをしていたという[5]。その後、季信は母の実家である浅井備中守家[注釈 2]のもとで養育され[5]、15歳になった天正2年(1574年)、信長に拝謁し、大宮司職と遺領の一部を、統一後の全領知行の約束とともに取りあえず3村を給付されるが、2代にわたり戦死した千秋家は武士を離れ、重職である大宮司職に専念して守るように命令を受けた(『熱田大宮司千秋家譜』)[12]。これで、野並村(現在の名古屋市天白区野並)を継いだ。
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