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日本の明治時代前期~昭和時代前期の作曲家。判事松平信英長男。松平郷松平家20代当主 ウィキペディアから
松平 信博(まつだいら のぶひろ、1889年(明治22年)3月26日 - 1949年(昭和24年)12月12日)は、日本の作曲家である[1]。松平郷松平家第20代当主であり、西條八十が作詞した流行歌『侍ニッポン』(徳山璉、1931年)の作曲で知られ、「殿様作曲家」と呼ばれた[1]。代表曲は同曲のほか、『天国に結ぶ恋』(徳山璉・四家文子、作詞柳水巴、1932年)、『旅は青空』(渡辺光子、作詞野口雨情、同年)等。作曲時に林 純平(はやし じゅんぺい)とも名乗った。松平信英の子。子に松平信泰。
1889年(明治22年)、当時浦和地方裁判所の判事であった父信英の元、浦和で生まれる[2]。旧制・東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)器楽科を卒業する。
1913年(大正2年)10月30日、北原白秋の詩『城ヶ島の雨』に梁田貞が作曲した楽曲を有楽座で披露する際、梁田の独唱に松平がピアノを伴奏した。
1924年(大正13年)4月、浅草公園六区にある日活直営の映画館「三友館」の専属作曲部長に就任、同館で上映されるサイレント映画に対して、同館独特の伴奏曲を作曲・演奏する[3]。1925年(大正14年)2月13日に公開された村田実監督の『街の手品師』では、全国の映画館に対する伴奏用のスコアを書いた[4][5]。1926年(大正15年)、一度日活を離れ、日本ビクター専属作曲家となる。1931年(昭和6年)、群司次郎正の小説『侍ニツポン』の主題歌を西條八十の歌詞に作曲してつくり、徳山璉が歌唱して録音、日本ビクターから発売される。
1932年(昭和7年)10月6日に公開された村田実監督の『一九三二年の女』には「音楽監督」とクレジットされているが、同作はトーキーではないがサウンド版であったので、松平の劇伴による同一楽曲・同一演奏が初めて全国の映画館で流れた[4]。初めてトーキーを手がけたのは、翌1933年(昭和8年)9月14日に公開された、太秦発声映画およびゼー・オースタヂオの共同製作による池田富保監督の『決戦高田の馬場』であった[4]。1938年(昭和13年)以降は、東宝映画の製作・配給作品を手がけた[4]。同年以降は、同年4月に発売された三門順子の『新柳桜の唄』 や、1939年(昭和14年)10月に発売された音丸の『夢で逢うたら』等、キングレコードや日本コロムビアでも、作曲を手がけるようになる。
終戦後の1947年(昭和22年)、愛知県東加茂郡松平村(現・愛知県豊田市松平町)の松平郷に疎開するが、1年ほどで東京に戻る[6]。
1949年(昭和24年)、死去した。享年60。松平中学校の校歌作曲を依頼された作曲家・音楽評論家の森一也の発案により、1958年(昭和33年)7月、松平東照宮境内に西條八十の筆による「作曲家松平信博顕彰碑」が建立された[1][7]。
※ 特筆以外はトーキー作品の劇伴作曲、つまりクレジット上は「音楽」である[4][5]。
※ すべて「作曲」、特筆以外はすべて日本ビクターの製作・発売盤である。
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