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楽浪郡
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楽浪郡(らくろうぐん)は、漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在した朝鮮半島の郡である[1][2]。一方で、完全に漢帝国が直轄する内地という見方も存在する[3][4]。真番郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たした。楽浪郡の住民は王氏が多く、韓氏がこれに次ぎ、この2氏でかなりの率を占めていた。
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沿革・変遷
要約
視点
成立
前108年(元封3年)、朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝により設置されたのが始まりである。郡治所は朝鮮県(衛氏朝鮮の王険城、今の平壌)に置かれ、郡の南部には南部都尉が置かれていた。
拡大
前82年(始元5年)には真番・臨屯が廃止され、臨屯郡北部の6県と玄菟郡の1県が楽浪郡に編入された。これを嶺東七県(日本海側)といい嶺東7県を管轄する軍事組織として東部都尉が置かれた。玄菟郡はその後段階的に縮小移転している。
この結果、楽浪郡は25県を抱え、この拡大した楽浪郡を創業期の楽浪郡に対して歴史学では「大楽浪郡」ともいう。『漢書』地理志によるとその戸数は6万2,812戸、口数は40万6,748人あった[5]。平壌郊外の貞柏洞364号墳で発見された「楽浪郡初元四年県別戸口簿」によると、25県の初元4年(紀元前45年)の戸数は4万3251戸、人口は28万0361人であった[6]。
混乱期
王莽による新朝が成立すると楽浪郡は楽鮮郡と改称され、諸県も名称変更された。その後の新末後漢初の混乱期に、土着漢人の王調が反乱を起こして一時的[7]な独立国家を樹立したこともあったが、後漢光武帝が中国統一事業の過程で30年には楽浪郡を接収している。その年(30年)のうちに後漢は嶺東7県を廃止して、原住民の穢人を県侯に任命して独立させている。
帯方郡の分割
後漢末期の混乱期になると、遼東地方で台頭した公孫氏が楽浪郡にも勢力を伸ばし、その支配下に収めた。
3世紀初頭には公孫氏の2代目、公孫康が郡南部の荒地を分離して再開発し、帯方郡を設置している。ただし、名目上は楽浪郡から帯方郡を分置したといっても、実際には帯方郡のほうが大きく楽浪郡はそれに比べて主役の座を譲った格好になった。
末期
三国時代には魏が238年に楽浪・帯方郡を接収し、翌年(一説には同年)倭女王卑弥呼も帯方郡を通じて魏と通交した。265年魏に代わった晋が引き続き支配したが、八王の乱以後は衰退の一途を辿り、313年には高句麗に滅ぼされ、後に高句麗は楽浪郡の跡地に遷都した。楽浪・帯方の土着漢人達は高句麗・百済の支配下に入り、これらの王国に中華文明を伝える役割を果たした。
その後
隋の煬帝の治世、朝鮮半島をめぐり隋と高句麗との関係が緊張したとき、国際通の政治家、裴矩は煬帝に朝鮮半島領有の必要を説いて次のように言った[8]。
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楽浪郡の漢人社会
楽浪郡には漢人豪族である王調が太守を殺害して「大将軍楽浪太守」を自称したように、郡県統治に抵抗する勢力も発生していた[9]。一方、この王調を殺害した王閎は八代祖先が山東半島からの移住者であり、この王調や王閎の他にも王光や王旴などのように楽浪郡治に土着化した漢人勢力一族がいた[9]。
楽浪郡の考古学
楽浪郡治は衛氏朝鮮国の都「王険」改め「朝鮮県」を郡治とし、現在の平壌市付近の大同江北岸(現在の平壌市街)に郡治が所在したと考えられている。
平壌市街一帯には楽浪漢墓と呼ばれる当時の墳墓が残り、その数は2,000以上と言われる。楽浪漢墓の多くは郡の下級役人たちのもので、墓制は前期の木槨墓から後期の塼室墓に移行している[11]。戦前の日本統治時代に発掘が始まり、腐朽消滅していない漢代の木槨墓が初めて学術的に発掘された。墓からは大型の木馬など、大量の木製品、漆器などが出土した。特に年号・製造部署が刻された漆器は重要で、前漢始元2年から後漢永平14年に至る長期間の遺品が出土している。多くが現在の四川省で制作された漆器である。その中で、南井里第116号古墳から出土した「漆絵人物画像文筺」は特に有名である。他にも銅鏡や官印、玉器、土器、漢銭などが出土した。これらの出土品にみえる人名は王氏ついで韓氏を姓とするものが多く、王氏は楽浪王氏と呼ばれ、もとは山東半島系の移民と考えられている。また王氏についで多い韓氏は河北省方面からの移民と考えられている。
日本の壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示すとされる。姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があると指摘されている。
楽浪郡の漢人遺民と倭国との関係
当時の朝鮮半島には中国系の人々が多くいた。314年頃に高句麗が西晋の朝鮮半島における出先機関である楽浪郡を滅ぼすが、楽浪郡の中国系の役人や知識人がすべて西晋に帰国できたわけではない[12]。多くは高句麗に吸収、高句麗の支配機構の整備に利用された。高句麗が府官制をもっとも早くに導入できたのには、そうした背景がある。帯方郡からそのまま南に避難すると百済に行き着き、百済もそうした中国系の人々を国家形成に活用した[12]。中国系の人々は朝鮮の権力に取り込まれながら世代を重ね、朝鮮の権力者にとって中国系知識人のもつ知識は魅力的であり、また中国系の人々にとっては知識は生き残るために必須の手段であり、世代を超えて継承された。そうした知識を身につけた中国系の人々が、4世紀から5世紀初頭にかけて倭国に渡来した。倭国もまた中国の知識を重視し、高句麗や百済が中国系知識人を活用するなか、自国が後れを取ることに危機感をもっていたであろうし、中国系知識人は倭国王の直属の側近として権力者と政治的に結びつくことで、自らの立場を確保しようとした。倭国王にとっても、中国系知識人との直接的な関係は日本列島の豪族たちに対するアドバンテージになり得るものとして歓迎され、倭国王と中国系渡来人は日本列島で共依存的な関係となる[12]。関晃は、「百済、新羅、任那(加羅)などの朝鮮各地から来た人々であるが、その中には前漢以来朝鮮の楽浪郡や帯方郡に来ていた中国人の子孫で各地に分散していたものもかなり含まれており、そのもたらした文化も主として漢・魏を源流とする大陸文化だったとみられる」と述べている[13]。八幡和郎は、「文明を伝えた帰化人は百済から来てもほとんど漢族…楽浪郡などの残党の漢人たちが日本に文化と技術を持って来た…大陸から直接に渡ってきた人もいたでしょうが、多くが百済経由でした。…この時代には、漢文の読み書きがよくできるのは、日本でも半島でもだいたい漢族に限られていましたし、高度の技術を持つ人たちも同じでした」と述べている[14]。
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楽浪郡の存在に関する異説
北朝鮮の学界と韓国の在野の学者[15][16]は、朝鮮半島には古代から自主独立の国があったとする独自の歴史観を掲げるため、楽浪郡が朝鮮半島にあったことを否定し、中国の遼東半島[17]にあったものとしている[18]。
この話では、楽浪郡が存在したとされる地域にあったのは「楽浪国」であるとする。これは中国の郡とは無縁の、朝鮮民族による独立国家であるとも、馬韓を構成する国の一つだったとも仮定し、戦前に北朝鮮で発掘された中国系の文化を示す出土品は、楽浪国が中国から攻め取った戦利品なのであるという。同時に楽浪国王の姓は「崔氏」という中国風の姓(『三国史記』に楽浪国王崔理が登場する。通常は楽浪郡太守のことと解される)だったともいう。『三国史記』によると、30年の後漢による楽浪郡の接収はなく、支配者が王調から崔理に代わっただけで、引き続き楽浪郡は独立していて「楽浪国」となっていたとする。高句麗は37年に楽浪国を滅ぼして併合したが44年に後漢が水軍を派兵して奪還、楽浪郡を再建したという。
北朝鮮が挑戦するまでは、楽浪郡は紀元前108年に古朝鮮を破った後に漢の武帝が確立した郡であったことは「普遍的に認められていた」[19]。北朝鮮の学者は、漢王朝の墓を扱うにあたり、それらを古朝鮮や高句麗の遺跡として再解釈している[20]。中国の漢に見られる物との否定できない類似性を持つ遺物のために、彼らは、それらが貿易と国際的な接触を通じて導入されたか、または偽造だとし、「決して遺物の朝鮮的特性を否定する根拠として解釈すべきではない」と提唱する[21]。
北朝鮮はまた、楽浪は2つあったとし、漢は実は遼東半島の遼河の楽浪を治めており、一方、平壌は紀元前3世紀から2世紀まで存在した「独立した朝鮮の国家」楽浪だったと言っている[19][22]。彼らによると、楽浪の伝統的な見方は、中国の中国至上主義者と日本帝国主義者によって拡大された[19]。
これらの異説は、北朝鮮の学界では「定説」となっており、韓国でも在野の歴史学界(アマチュアの歴史愛好家)から支持されているが、主流の歴史学界(大学教授からなる)からは批判されており、韓国では「定説」になっていない。また日本やアメリカや中国の学界では全く認められていない。
→詳細は「漢四郡 § 漢四郡否認論」を参照
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その他
脚注
参考文献
関連項目
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